●近代(明治時代~昭和初期)

慶応3年(1867)の大政奉還により江戸幕府が倒れると東北地方は翌年から始まる戊辰戦争に巻き込まれていきます。仙台藩は奥羽越列藩同盟に加わり新政府軍と戦いましたが敗北し、62万石から28万石に減封されます。胆沢郡と江刺郡は没収地として新政府の直轄地となり、数回にわたる行政区画の変更の末、明治9年(1876)に岩手県に編入されました。その過程で明治2年(1869)、水沢に胆沢県庁が置かれた際、役人付の給仕として採用されていた後藤新平齋藤實らが大参事安場保和、小参事嘉悦氏房ら熊本を中心とする政府役人に見いだされます。後藤新平は逓信大臣や鉄道院総裁を歴任した後、東京市長に就任したほか、関東大震災後の大正12年(1923)には帝都復興院総裁となり、現在の東京のインフラの基盤を築きました。齋藤實は凶弾に倒れた犬養毅の跡を継いで昭和7年(1932)に第30代内閣総理大臣に就任し、昭和恐慌克服のため「自力更生」を提唱、挙国一致内閣を組織しています。

この地域の産業の基本は農業であり、明治維新後も新田開発が行われたほか、養蚕や馬の育成などに力が注がれました。東北地方を巡幸中の明治天皇の目にとまり御料馬となった金華山号は、水沢の大林寺で飼養されていた南部馬です。特産の漁網や鋳物は以前から名声を博していましたが、明治23年(1890)に仙台~盛岡間の鉄道が開通し、大正2年(1913)には水沢~岩谷堂間に鉄道馬車、その数年後には定期バスが運行するなどしたことで運送業と倉庫業が発達し、商業も盛んになりました。このような産業構造は現代へと引き継がれています。

【国重文:旧高橋家住宅】

  • 国重文:旧高橋家住宅
    国重文:旧高橋家住宅

武家住宅の平面構成を踏襲しながらも、中国趣味を基調とした高価な材料と障壁画による優れた室内意匠をもち、かつ東北地方へ煎茶席の影響が及んだことを示す近代和風住宅です。主屋は明治21年(1888)に上棟され、最も格式の高い表座敷「龍の間」は、幕末から明治・大正期に流行した煎茶席において好んで使用された唐木(とうぼく)が使用されています

高橋家は、文化11年(1814)に7代喜惣太が士分に取り立てられ東大畑小路(現大畑小路)に屋敷替えとなったもので、留守氏八幡系家臣録に「文化十一年十月 百貫文指上御不断組ヨリ」と記載されています。以後、土地収入を基盤とした金融を中心に膨大な財力を形成し、それまでの身分制や規制を超越した高橋家の政治力と傑出した近代和風住宅を生みだしました。現在の建物群を整備したのは9代の萬右衛門(文政6年~明治26年)であることから「高萬家」とも呼ばれています。

※日高火防祭の本祭当日(4月29日)に外観のみ公開しています。

【県有文:旧岩谷堂共立病院】

  • 県有文:旧岩谷堂共立病院
    県有文:旧岩谷堂共立病院

明治8年(1875)に開院した共立病院にかかる擬洋風建築で、新しい西洋式病院建築の様式を伝える全国的にも珍しい遺構です。下層部は、六間四方の1階に中2階を含め、下層屋根裏に三間四方の3階部を配置。上層に4階を設け、頂部に搭屋をのせた外観三層の楼閣式建築となっています。特に上部の楼閣と八角形の搭屋は特徴的で、縦長の方引きガラス窓を採用するなど洋風のモチーフが取り入れられており、戦後のラジオドラマ「鐘の鳴る丘」のモチーフになったともいわれています。

※3月20日~11月15日に一般公開しています。 電話 0197-35-7830
(毎週火曜日休館、公開時間 10:00~12:00、13:00~17:00)

【帝都復興計画実施案】

  • 帝都復興計画実施案
    帝都復興計画実施案

地震内閣と称された第2次山本内閣のもとで、帝都復興院総裁として関東大震災からの復興を主導したのは、胆沢郡塩釜村(現奥州市水沢区)出身の後藤新平でした。東京市長時代、人事の刷新と都市インフラ再整備を企図した「八億円計画」を提唱し、大風呂敷などと揶揄されましたが、奇しくも後の関東大震災の復興に資することになります。東西幹線道路や区画整理によって生み出された補助幹線道路、隅田公園などの大公園、復興小学校に付置された52の小公園や不燃化事業など現在の東京都の骨格となるインフラ整備はこの時に行われたといっても過言ではありません。

〔後藤新平(1857~1929)〕

胆沢郡塩釜村(現奥州市水沢区)に生まれた後藤新平は、愛知県医学校長兼病院長、台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、逓信大臣、鉄道員初代総裁、東京市長、帝都復興院総裁、少年団(現在のボーイスカウト)初代総裁、東京放送局(NHKの前身)初代総裁など各分野で活躍した政治家です。

震災復興の他、愛知県医学校時代に暴漢に襲われた板垣退助を治療したり、逓信大臣ではポストを赤色に決定したり、日本初のラジオ放送で挨拶を行うなど数々のエピソードがあります。

後藤新平記念館で関係資料を展示しています。

【自力更生額】

  • 自力更生額
    自力更生額

齋藤實は、胆沢郡塩釜村(現奥州市水沢区)出身の軍人・政治家です。第30代内閣総理大臣に就任した際は、「スローモー」や「べご」と揶揄されましたが、粘り強さを流儀に混迷する時代に立ち向かいました。「挙国一致内閣」を組織して積極財政による内需拡大と輸出増進を図り、深刻な恐慌状態にある農村救済では農山漁村経済更生運動に取り組みました。雇用を拡大する日本版ニューディール政策ともいわれますが、多額の予算を必要とする財政的な問題を抱え、自助努力を促す精神運動として「自力更生」のスローガンを掲げ国民に訴えかけました。

〔齋藤 實(1858~1936)〕

胆沢郡塩釜村(現奥州市水沢区)に生まれた齋藤實は、胆沢県庁の給仕をふりだしに、海軍大臣、朝鮮総督、内閣総理大臣、内大臣を歴任。昭和11年(1936)の2.26事件で凶弾に倒れてその人生をとじています。

天賦の才を発揮した後藤新平とは対照的に温和、誠実、実直を信条とした人物で、軍人らしからぬ穏健派でもありましたが、激動の時代の中で命を落とすこととなりました。

斎藤實記念館で関係資料を展示しています。

【2.26事件銃弾貫通の鏡】

  • 2.26事件銃弾貫通の鏡
    2.26事件銃弾貫通の鏡

昭和11年(1936)2月26日、青年将校らが1,483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げてクーデター未遂事件を起こしました。この事件で、内閣総理大臣岡田啓介、大蔵大臣高橋是清、内大臣齋藤實、侍従長鈴木貫太郎、陸軍教育総監渡辺錠太郎、元内大臣牧野伸顕、内務大臣後藤文夫が襲撃され、齋藤實、高橋是清、渡辺錠太郎のほか警備の警察官などが殺害されました。

この鏡は、四谷にあった齋藤實邸の寝室にあったもので、2.26事件の凶弾が貫通し、事件の生々しさを今に伝えています。

【甲冑(伝戊辰戦争着用)】

  • 甲冑(伝戊辰戦争着用)
    甲冑(伝戊辰戦争着用)

明治元年(1868)閏4月、薩長を中心とした政府軍の会津征討を阻止しようと仙台藩を盟主として奥羽列藩同盟が結成され、水沢、江刺(岩谷堂)、前沢からも白河と秋田に出陣しています。最初は順調な進撃を示した同盟軍でしたが、政府軍との装備の違い等から降伏する藩が相次ぎ、窮地に追い込まれ、仙台藩は9月15日に降伏しています。市内に残された甲冑の中には、この戊辰戦争で実際に着用したと伝えられるものがあります。

奥州市武家住宅資料館で甲冑の一部を展示しています(企画展示期間中を除く)。

【市有文:龍紋真形鉄湯釜】

  • 市有文:龍紋真形鉄湯釜
    市有文:龍紋真形鉄湯釜

盛岡とともに南部鉄器の産地として知られる奥州市の水沢地方ですが、盛岡は旧南部藩領、水沢は旧伊達藩領であり、その歴史は異なっています。

水沢の鋳物業は、豊田館(現在の江刺区岩谷堂餅田)藤原清衡が近江国から鋳物師を招いたものが次第に南下して伝わったと語り継がれており、明治20年以前は田茂山鋳物と称されていました。藩政時代には鍋、釜類の他、仏像、大砲、梵鐘などを製作していましたが、鋳つぶしや腐食により現存する物は僅かです。この湯釜は鐶付に「滝川作」の銘が鋳込まれていることから、明治4年の文書に記された田茂山鋳物師「滝川惣右ェ門」が慶応年間に製作したものと推定されており、水沢の南部鉄器(水沢鋳物)の歴史を伝える資料として市指定有形文化財に指定されています。