●近世(江戸時代)

豊臣秀吉による全国制覇のなか、東北地方で力をつけていた伊達政宗は、天正18年(1590)に葛西氏と大崎氏の旧領でおこった一揆を平定した功績により、その旧領12郡をも手に入れ、名実ともに東北の覇者となりました。江戸幕府は一国一城を原則としましたが、仙台藩は仙台城と白石城の2城が認められていたほか、政治的・地理的重要性などに応じて要害・所・在所を各地に置いています。要害の多くは中世城館を継承したもので、要所には重臣が配されました。

南部氏の領地との境となる胆沢郡と江刺郡には、北方警護の軍事的拠点として5つの要害と2つの所が置かれ、元和2年(1616)には金ヶ崎要害に一門の伊達宗利(旧姓留守)が移封されています。宗利は寛永6年(1629)に水沢要害に転封となり、万治2年(1659)には岩谷堂要害に同じく一門の岩城宗規が配置されたほか、人首要害には一族の沼辺重仲、宗利転封後の金ヶ崎要害にも一族の大町定頼が入部。前沢と野手崎の所にはそれぞれ一門の三沢氏と一家の小梁川氏が配されました。これらの要害や所の周囲には小城下町が形成されてゆきます。

政宗は新田の開発を積極的に行い、年貢米の余剰分を農民から買い上げて江戸に廻米することで藩財政の基盤を築きました。その米は本石米と呼ばれ、江戸の消費米のほぼ半ばを占めていたといいます。当地方は後藤寿庵による寿安堰の開削などにより、胆沢扇状地の開田が進められたことで、仙台藩屈指の穀倉地帯となりました。北上川を挟む胆沢郡と江刺郡の間の水域は上川と呼ばれ、舟運で栄えた要所の河港には御蔵が設けられていました。

また、仙台藩は代々の藩主の好学の気風により学問が奨励されていました。文政5年(1822)、養賢堂から分離設置された仙台藩医学校において、わが国初の西洋医学講座が実施されたことは、大槻玄沢、大槻玄幹、佐々木中沢、そして水沢出身の高野長英箕作省吾など著名な蘭学者が仙台藩から輩出されたことと無縁ではありません。藩内各所にも学問所(郷学)が開設され、水沢に「立生館」、前沢に「進脩館」、岩谷堂には「比賢館」、そして金ヶ崎には「明興館」があり、多くの人材が輩出されています。

【国重文:旧後藤家住宅】

  • 国重文:旧後藤家住宅
    国重文:旧後藤家住宅

建築年代を示す資料はありませんが、東北地方の民家の形式を二分する仙台藩直家の典型的遺構です。解体工事中に地下掘立柱の穴底から検出された笹塔婆の残欠に元禄8年(1695年)の銘があることから、その頃の建築と考えられます。

江戸時代中期、明治初年代、及び昭和初年に一部改修されていますが、軸部・小屋組など主要部分に変更はなく、当時を良く残していることから東北地方の民家研究上極めて重要とされています。

※4月~11月の平日10:00~17:00に公開対応しています
(事前予約必要:奥州市教育委員会事務局歴史遺産課企画管理係 電話0197-35-2111)

【市有文:上伊澤元禄絵図】

  • 市有文:上伊澤元禄絵図
    市有文:上伊澤元禄絵図

上伊沢郡の大肝入りが所有していた絵図で、安政4年(1857)の写しですが、原図は元禄12年(1700)に描かれたものです。上伊澤地区(金ヶ崎、水沢、胆沢の一部)の地名、水田、集落、山林、道路、塚、家臣団屋敷、堤の所在が色別で記されており、江戸時代中葉期の開田状況ならびに集落状況などを知るうえで貴重な歴史資料です。

胆沢郷土資料館で原寸大の複製を展示しています。

【市有民:船絵馬(愛宕神社所蔵)】

  • 市有民:船絵馬(愛宕神社所蔵)
    市有民:船絵馬(愛宕神社所蔵)

仙台藩では余剰米や家臣の知行地の米を藩が買い取る買米制が行われており、それらの一部は廻米として江戸で売られて藩財政を支えていました。この船絵馬は、江刺郡内の年貢米を石巻まで4日かけて運んだとされる江戸時代の北上川舟運を示すものですが、実際の絵柄は海運の千石船となっており、パターン化した図柄のものを購入して奉納されたものです。

【立生館教科書】

  • 準備中
    立生館教科書

立生館は水沢伊達氏が天保6年(1835)に開設した郷学で、論語の一節「本立道生(根本が既に立つとき、その道は自ら生ずる)」から「立生」を講堂に掲げて教学の精神としていました。家臣の子弟が中心でしたが庶民の子にも門戸を開き、士分の子弟は孝経・四書・五経など、庶民の子弟は、実語教、童子教、商売往来などの教科書が用いられました。

【市有文:比賢館の版木】

  • 市有文:比賢館の版木
    市有文:比賢館の版木

比賢館は、岩谷堂城主の岩城氏が天保6年(1835)に開設した郷学で、家臣の子弟及び氏家の優秀な子弟を教育したところです。天保14年(1843)ごろ「童蒙須知」「白鹿洞書院掲示」「朱子訓」などの教科書を印刷出版しており、その木版が遺されています。全体が保存されていることが珍しく、藩校の教育内容が理解できる資料であり、藩政時代の教育を知る上で貴重です。

【国史跡:高野長英旧宅】

  • 国史跡:高野長英旧宅
    国史跡:高野長英旧宅

この旧宅は、奥州市水沢区(旧塩釜村)出身の幕末の蘭学者・高野長英が江戸に上るまで9歳から17歳まで生活していた家です。明治9年の改修で二階が上げられ、明り取りや欄間、縁手すりなどに明治時代の粋な意匠がみられますが上座敷・次座敷・西縁は当時のまま残されており、昭和8年4月13日に国の史跡として指定されています。

※日高火防祭の本祭当日(4月29日)に一般公開しています。

【国重文:高野長英関係資料】

  • 国重文:高野長英関係資料
    国重文:高野長英関係資料

奥州市水沢区(旧塩釜村)出身の幕末の蘭学者・高野長英の著述書、蘭文書等の研究翻訳資料や書状および椿椿山筆の肖像画からなる一括資料です。著述書には訳書を含み、西洋への関心が窺え、文書・書状類とともに、長英の思想形成、事跡等を伝えています。

〔高野長英(1804~1850)〕

高野長英は、幕末の蘭学者・蘭医です。高野長英は、日本人漂流者7名を乗せた米国商船を江戸幕府が打ち払ったモリソン号事件について、『戊戌夢物語』を著したことで幕政批判の罪に問われ永牢となりますが、その内容は「入港を認め、漂流民をうけとった上で、交易の要求は拒絶すべきである」という理にかなったものでした。獄中から自らの意見の正当性を訴え続けましたが、それがかなわないと知ると牢屋敷の火災に乗じて逃亡し、潜行中もオランダ語の書籍の翻訳や著述を積極的に行うなど、鎖国下の日本において国際情勢の把握に努め、世界の中の日本の立ち位置を発信し続けました。

高野長英記念館で関係資料を展示しています。

【新製輿地全図】

  • 準備中
    新製輿地全図

奥州市水沢区(旧塩釜村)出身の幕末の蘭学者・箕作省吾が編訳した日本最初の世界地図です。1835年のフランス製の世界地図をもとにして書かれ、弘化元年(1844)に銅版印刷で出版されました。この地図は省吾が同時期に並行して作成した『坤輿図識』とともに、幕末の知識人の世界観形成に大きな影響を与えたとされます。

〔箕作省吾(1821~1847)〕

高野長英(1804~1850)と同時代に活躍した蘭学者です。水沢における長英の師であった坂野長安に蘭学を学んだ後、江戸で箕作阮甫に弟子入りし、その才能を認められて箕作家の婿養子となります。弘化元年(1844)に日本初の世界地図である『新製輿地全図』と西洋地理書の『坤輿図識』3巻、『坤輿図識補』4巻を著しました。これらの著書は黒船が来航し動揺している時代に日本の外交・内治に多くの影響をあたえましたが、省吾は編纂の無理がたたって結核に侵され、26歳の若さで没しています。

【市史跡:留守家墓所】

  • 市史跡:留守家墓所
    市史跡:留守家墓所

寛永6年(1629)から明治維新まで約240年にわたって水沢地方を治めた水沢伊達氏は、源頼朝の平泉討伐後に奥州留守職となった伊沢家景の後裔です。姓を留守と改め、戦国時代には伊達氏と大崎氏の中間に位する大名でしたが、その後、伊達氏に服属して一門となり、伊達氏を名乗りました。明治維新後に留守の姓に復したため、地域では留守家として知られています。

日高神社境内の瑞山神社(祖霊舎)には、初代宗利が祀られ、その南に2代宗直の墓所があります。大安寺に3代宗景と5代から最後の当主である12代邦寧までの墓所があり、江戸時代の大名級武士の墓所として市の史跡に指定されています。