年 | 月 | |
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安政4(1857)年 [1歳] | 6月4日 | 陸奥国胆沢郡塩釜村(現奥州市水沢区)吉小路に、留守家家士後藤左伝治実崇と利恵の長男として誕生。 誕生日について戸籍には「6月5日」とあるが、伯自身の履歴書に「4日」と記してあるので、 誕生記念日等皆これによる。太陽暦7月24日に当る。 |
安政6年 [3歳] |
3月13日 | 水沢大火、後藤家菩提寺増長寺を始め全町殆ど焼ける。 |
文久2年 [6歳] |
このころ既に句を誦し、書を能くする。 | |
元治元年 [8歳] |
3月 | 武下節山の家塾で漢字を修める。 |
慶応3年 [11歳] |
2月朔日 | 留守家邦寧の奥小姓となる。 |
8月 | 武下塾をやめて藩学立生館に入り経史、詩文を修める。 | |
明治元年 [12歳] |
4月12日 | 祖父実仁死去につき父実崇と共に忌服届を提出。 |
6月 | 幼兵に編入され、立生館休学。 | |
明治2年 [13歳] |
2月 | 留守家削封と共に後藤家は土着帰農して平民となる。 |
8月12日 | 府藩県設置、これに伴い胆沢県庁を水沢旧城内に設置。同県庁給仕に採用。 | |
9月 | 安場保和大参事の学僕となり、3か月後史生岡田俊三郎(後の阿川光裕)に就く。 | |
明治3年 [14歳] |
正月 | 立生館を改めて郷学校となる。その始業式の日選ばれて、県庁の武田権令の前で論語里仁篇を講ずる。 |
2月25日 | 友人3人を誘って郊外に遊び、「郊遊記(漢文)」を作る。 | |
11月4日 | 岡田権大属の管内巡視に随伴し、山ノ目・金成・高清水・涌谷・石巻に出張。 | |
明治4年 [15歳] |
2月 | 初めて上京、太政官少史荘村省三の学僕となる。 |
4月9日 | この日付で郷里の父から慈愛溢れる処世訓を寄せられた。 | |
明治5年 [16歳] |
正月 | 帰郷し武下塾で詩文を修める。 |
明治6年 [17歳] |
5月 | 阿川の勧めにより福島県須賀川遊学の途に上る。 |
5月16日 | 須賀川に到着、阿川の官舎に入る。 | |
5月22日 | 福島県第一洋学校に入学。 | |
明治7年 [18歳] |
1月 | 遊学途中で帰郷したが、父の誡めにより再び福島に引き返す。 |
2月2日 | 須賀川医学校に転じ、生徒寮に入る。 | |
9月8日 | 阿川の留守中、預り金を消費して始末に窮し、父に救済方を懇願。 | |
明治8年 [19歳] |
7月4日 | 福島県病院六等生となり、医学校生徒取締(内舎副舎長)として、月給3円受給。 |
9月2日 | 五等医生拝命、月給5円。 | |
明治9年 [20歳] |
2月22日 | 依頼五等生解職。 |
3月28日 | 生徒寮内外舎長となり、月給8円受給。 | |
8月初旬 | 自ら調剤の眼薬「済衆水」を父に発売させる。 | |
8月8日 | 辞表提出。 | |
8月10日 | 辞表が聴許される。 | |
8月20日 | 名古屋安着。 1月に愛知県十一等出仕として転任した阿川邸に落ち着く。 | |
8月25日 | 愛知県病院三等医拝命。医局診察専務を仰せ付けられる。月給10円。 | |
10月1日 | 阿川家を出て教授司馬凌海の家塾から通院、教師ローレッツの指導を受ける。 | |
明治10年 [21歳] |
1月20日 | 公立医学所二等授業生。月給12円。 |
4月 | 司馬凌海解職となり名古屋を去ったので、再び阿川家に入る。 | |
6月15日 | この日から23日まで医術開業試験を受ける。 | |
7月 | 大阪陸軍臨時病院に行き、自費見学。 | |
8月8日 | 愛知県医学校四等訓導。 | |
8月20日 | 依願解職。 | |
9月3日 | 大阪陸軍臨時病院の傭医。日給60銭。 | |
9月15日 | この日付で医術開業免状下付。 | |
11月27日 | 名古屋鎮台病院傭医。月給15円。 | |
明治11年 [22歳] |
3月1日 | 再び愛知県病院に帰り、名古屋公立医学校一等訓導。月給25円。 |
3月3日 | 公立病院三等診察医兼務。 | |
6月17日 | 第三区医院集会所で講義担当、以後毎週日曜日出張講義。 | |
7月13日 | 公立病院二等診察医兼医学校一等訓導。月給30円。 | |
10月 | 健康警察医官を設くべきの議を安場県令に建白、 | |
11月27日 | 衛生事務取調べのため東京出張。 | |
12月10日 | 「愛知県ニ於テ衛生警察ヲ設ケントスル概略」を内務省衛生局長長与専斎に呈する。 | |
明治12年 [23歳] |
1月 | 両親及び弟彦七を東京に招く。 |
2月17日 | 東京から名古屋に帰る。これより前に両親らは既に名古屋に来ている。 | |
7月9日 | 公立病院一等診察医兼医学校監事。月給40円。 | |
12月24日 | 愛知県愛衆社設立。 | |
12月27日 | 横井院長兼医学校長病気中、その職務代理となる。 | |
明治13年 [24歳] |
2月17日 | 公立愛知病院一等診察医兼医学校監事中教諭。 |
3月26日 | 郷里の父へ許婚者坂野秀との婚約解消を通告。 | |
5月8日 | 横井信之退職につき公立愛知病院長兼医学校長心得、月給60円。 | |
8月5日 | この日から30日間賜暇、郷里の病父を見舞う。 | |
9月 | 衛生及び医事に関する「四季医報」第1号発刊。 | |
明治14年 [25歳] |
1月 | 国貞県大令宛て「聯合公立医学校設立之儀」建白。この年から私塾対育舎を開き、50余名の子弟を育成。 |
1月30日 | 父急病の電報に接し即日名古屋を出発して水沢に急行。 | |
10月19日 | 愛知県医学校長兼愛知病院長。 | |
明治15年 [26歳] |
2月 | 長与衛生局長から衛生局御用係採用の内命。 |
4月6日 | 板垣退助岐阜に遭難。招電により翌7日急行、負傷の手当てをする。 | |
明治16年 [27歳] |
1月13日 | 父の訃報に接し、弟の彦七を代わりとして帰郷させた。 |
1月25日 | 内務省御用係、准奏任取扱、月俸100円。衛生局照査係副長となる。 | |
9月 | 安場和子と結婚。 | |
明治17年 [28歳] |
1月17日 | 衛生局牛痘種継所長兼務。 |
7月19日 | 衛生局東京試験所長心得を免ぜられる。 | |
明治18年 [29歳] |
6月25日 | 衛生局第二部長。 |
7月2日 | 衛生局牛痘種継所長兼務を免ぜられる。 | |
明治19年 [30歳] |
1月16日 | 非職仰せ付られる。 |
1月21日 | 改めて内務省四等技師の辞令を受ける。 | |
23日 | 衛生局勤務の辞令を受ける。 | |
明治20年 [31歳] |
9月 | 「普通生理衛生学」を著す。 |
明治21年 [32歳] |
私立衛生会雑誌に「職業衛生法」を発表。 | |
明治22年 [33歳] |
8月28日 | 「国家衛生原理」を著す。 |
明治23年 [34歳] |
2月5日 | この日郷里からの国会議員立候補の勧誘に対し謝絶の書簡を発送。 |
3月18日 | 在官のまま自費独逸留学を許される。 | |
4月5日 | 横浜出帆、渡独の途につく。 | |
9月19日 | 「衛生制度論」を発行。 | |
明治24年 [35歳] |
8月10日 | 万国衛生及び民勢会議に日本代表として出席。 |
明治25年 [36歳] |
1月21日 | ドクトル試験に合格。 |
2月22日 | 正六位に叙せられる。 | |
4月21日 | この日からローマにおける「万国赤十字会議」に出席。 | |
5月2日 | マルセーユ出帆、帰朝の途に就く。 | |
6月10日 | 横浜着。 | |
11月17日 | 内務省衛生局長。 | |
明治26年 [37歳] |
3月16日 | 医術開業試験委員長。 |
7月21日 | 「万国衛生年鑑」翻訳発行。 | |
9月23日 | 長男一蔵誕生。 | |
10月28日 | 「黴菌図譜」翻訳発行。 | |
11月15日 | 中央衛生会幹事兼任。高等官三等に叙せられる。 | |
11月16日 | 相馬事件に連座して入獄。 | |
明治27年 [38歳] |
5月3日 | 無罪判決。 |
5月25日 | 保釈出獄。 | |
8月 | 保田の存林寺に家族と静養中に「自叙伝」を書く。 | |
12月7日 | 東京控訴院は原裁判どおり無罪判決を下し、検事の上告もなく青天白日の身となる。 | |
明治28年 [39歳] |
4月1日 | 臨時陸軍検疫部事務官長に任ぜられる。高等官三等。 |
9月7日 | 再び内務省衛生局長となり、中央衛生会幹事を兼ねる。 | |
11月13日 | 台湾における阿片政策に関し、内務大臣及び台湾事務局総裁伊藤博文に意見書提出す。 | |
明治29年 [40歳] |
4月14日 | 台湾総督府衛生顧問嘱託。 |
6月13日 | 桂新総督赴任につき伊藤総理・西郷海相等と共に東京出発。神戸から軍艦「吉野」に乗り初めて台湾に赴く。 | |
6月20日 | 軍艦「吉野」に乗り基隆出発、南支視察の途に上る。この年秋ごろ陸軍検疫報告書が独帝ヴィルヘルム二世の賞讃を博し「後藤新平」の名早くも ベルリンに伝わる。 | |
明治30年 [41歳] |
6月8日 | 血清薬院長心得。 |
7月15日 | 永薬病院主管。 | |
明治31年 [42歳] |
3月2日 | 台湾総督府民政局長。 |
6月20日 | 新官制により民政局長改め民政長官となる。 | |
明治32年 [43歳] |
11月8日 | 台湾総督府鉄道部官制が成り、鉄道部長となる。 |
明治33年 [44歳] |
3月25日 | 福州厦門地方へ出張。 |
4月25日 | 帰府。 | |
8月23日 | 奉勅訓令あり、いよいよ南清政策の実行に着手。 | |
8月23日 | 広瀬海軍大佐を同行し、厦門に急行。 | |
8月31日 | 帰府。 | |
明治34年 [45歳] |
6月1日 | 台湾総督府専売局長。 |
明治35年 [46歳] |
6月13日 | 欧米視察の途に上る。 |
12月17日 | 帰台。 | |
明治36年 [47歳] |
11月20日 | 貴族院議員に勅選される。 |
明治37年 [48歳] |
8月19日 | 桂首相に対し財政政策に関し意見書を提出。 |
明治38年 [49歳] |
8月28日 | 特殊な任務を帯びて満韓地方へ出張。 |
明治39年 [50歳] |
1月20日 | 帝国ホテルにおける斎藤實海相就任祝賀会に出席。 |
4月11日 | 勲功により男爵を授けられる。 | |
10月3日 | 台湾を去り、9日東京着。 | |
11月13日 | 南満州鉄道株式会社総裁を命ぜられる。この日勲一等旭日大綬章を賜る。同日、台湾総督府民政長官を免ぜられ、改めて台湾総督府顧問・関東都督府顧問を仰せ付けられる。 | |
11月30日 | 従三位に叙せられる。 | |
明治40年 [51歳] |
5月23日 | 清国皇室礼問の途に上る。 |
5月29日 | 清国皇帝及び西太后に謁見する。 | |
6月3日 | 袁世凱と会見し「箸同盟」を提唱。 | |
12月11日 | 満鉄総裁として清国皇族溥倫貝子を歌舞伎座に歓迎招待する。 | |
明治41年 [52歳] |
1月1日 | 独逸皇帝からプロシア国王冠一等勲章を贈られる。 |
4月22日 | 訪露のため神戸出帆、大連に向かう。 | |
5月18日 | 露帝ニコライ二世に謁見。 | |
6月15日 | 東京帰着。 | |
6月18日 | ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツの終身会員に選挙され、ロンドンへ会費を送る。 | |
7月13日 | 桂首相に対し満鉄を逓信省管轄とすること、その他の条件を出し、逓相就任を承諾。この夕刻から発病入院。翌14日逓相として入閣。満鉄総裁を免ぜられる。 | |
7月22日 | 坂西陸軍中佐に托し、法庫門鉄道問題に関し袁世凱に親書を渡す。 | |
7月24日 | 台湾総督府顧問・関東都督府顧問を免ぜられる。 | |
9月14日 | 露皇帝から白鷲大綬章を贈られる。 | |
12月5日 | 鉄道院総裁を兼任。 | |
明治42年 [53歳] |
6月1日 | 清国皇帝から贈られた頭等雙龍宝星を身につけることが許される。 |
10月24日 | 自作「大国民の歌」を作曲させ刊行。 | |
明治43年 [54歳] |
4月1日 | 来朝の清国皇族濤貝勒を三井集会所に招待歓迎。 |
6月22日 | 新設拓殖局副総裁兼任。高等官一等に叙せられ、特に親任官の待遇を賜わる。 | |
明治44年 [55歳] |
5月4日 | 郷里水沢公園において、伯の寿像除幕式(太平洋戦争中、鉄類を国に献納のため撤去される。) |
5月5日 | 拓殖局副総裁の兼任を免ぜられる。 | |
6月17日 | 台北新公園において伯の寿像除幕式。 | |
7月20日 | 正三位に叙せられる。 | |
8月30日 | 桂内閣瓦解により逓信大臣及び鉄道員総裁を免ぜられる。 | |
11月28日 | 訳書「官僚政治」を発刊。 | |
明治45年・ 大正元年 (7月30日大正と改元) [56歳] |
2月25日 | 台南駅頭において伯の寿像除幕式。 |
4月3日 | 台中公園において伯の寿像除幕式。 | |
4月15日 | 伯の腹案に成る戯曲「平和」を発刊。 | |
4月17日 | 母堂の米寿の賀宴を日本橋倶楽部で催す。 | |
7月6日 | 桂公と共に欧米遊歴の途に上る。モスクワに在る時、明治天皇御不例の報に接し、急いで帰国の途に就く。 | |
7月30日 | スイヅラン駅において明治天皇崩御の悲報に接する。 | |
8月11日 | 帰京、直ちに参内。 | |
12月21日 | 第三次桂内閣逓信大臣兼鉄道院総裁・拓殖局総裁となる。 | |
大正2年 [57歳] |
1月20日 | 三田の桂邸で、桂の新党結成発表に立ち合う。 |
2月20日 | 内閣総辞職依願免本兼官。 | |
2月22日 | 特に前官の礼遇を賜る。 | |
10月25日 | 立憲同志会脱退意思表明。 | |
大正3年 [58歳] |
6月下旬 | 山縣公を小田原に訪ねて東洋銀行設立の必要を説く。 |
7月 | 東洋銀行設置運動に熱中する。 | |
8月 | 東亜共同経済機関設置案発表。 | |
大正4年 [59歳] |
6月4日 | 貴族院において対支外交問題について大隈首相と論戦。 |
大正5年 [60歳] |
10月9日 | 寺内内閣の内務大臣兼鉄道院総裁となる。 |
12月23日 | 鉄道院会議室に技監及び各局長を召集し、広軌改築案について意見交換。 | |
12月25日 | 閣議において広軌準備復活を要請し、翌年12月決定させる。 | |
大正6年 [61歳] |
7月31日 | 拓殖調査委員会委員長を仰せ付けられる。 |
大正7年 [62歳] |
4月8日 | 和子夫人永眠、享年53歳。 |
4月13日 | 外務大臣に任ぜられる。 | |
7月3日 | 英帝国一等勲章並びに支那共和国一等大綬嘉禾章を受領し、身につけることを許される。 | |
7月15日 | 宮中においてシベリア出兵問題についての元老会議に出席。 | |
9月29日 | 寺内内閣総辞職、依願免外務大臣。特に前官礼遇を賜わる。 | |
10月16日 | 臨時外交調査委員会委員を仰せ付けられ、特に国務大臣の礼遇を賜わる。 | |
大正8年 [63歳] |
2月20日 | ハルピン日露協会学校創立委員長となる。 |
2月24日 | 拓殖大学学長就任。 | |
3月4日 | 戦後の欧米視察の途に上り、米・英・仏・白等を巡遊。 | |
11月13日 | 再び米国を経て横浜入港帰国。 | |
12月26日 | ベルギー王冠第一等勲章受領し、佩用方允許される。 | |
大正9年 [64歳] |
2月7日 | 前年東京市民に質問した三ヵ条の回答報告会を鉄道協会で開く。 |
2月18日 | 日露協会会頭に就任。6月16日大調査機関設置案について原首相・横田法制局長官と長時間協議。 | |
6月25日 | この日から胆石病により私邸で療養。 | |
9月7日 | 平和条約締結並びに大正4年ないし大正9年事件の功により旭日桐花大綬章を授けられる。 | |
12月7日 | 東京市会において市長に選挙される。 | |
12月8日 | 市会議長ら来訪、市長就任を懇請されたが受諾せず。その後渋沢栄一その他の勧説がある。 | |
12月16日 | 正式に就任を受諾。 | |
17日 | 東京府東京市長就任御裁可となる。年俸25,000円 | |
大正10年 [65歳] |
1月26日 | 市長俸給全額を市に寄付。 |
2月7日 | 市民の声の報告会を鉄道協会で開く。 | |
4月27日 | 所謂8億円計画案を市参事会に提出する。 | |
11月3日 | 市連合青年団神宮例祭第1回運動会に東宮殿下の台臨を仰ぎ、団長としてご説明申し上げる。なお、この日来朝中の英新聞王ノースクリフ卿・米上院議員フィーラン氏一行を自邸に招き、茶の湯の歓待をする。 | |
大正11年 [66歳] |
1月15日 | 安田家から東京市政調査会設立費350万円の寄附の申し出がある。 |
4月15日 | 伯を総裁として全国少年団、赤坂離宮に英国皇太子を奉迎する。 | |
4月16日 | 財団法人東京市政調査会(2月24日設立認可)の会長となる。 | |
6月12日 | 東京連合少年団団長となり、その後間もなく「少年団日本連盟総裁(後、総長)」となる。 | |
9月25日 | 勲功により特に子爵に陞叙される。 | |
9月30日 | 従二位に叙せられる。 | |
11月 | 加藤(友)首相と日露復交についての黙契なる。 | |
大正12年 [67歳] |
1月16日 | 北京滞在中の労農政府極東代表ヨッフェに病気療養のため来日することを勧める。 |
1月23日 | 上海滞在のヨッフェから欣然招きに応じて渡日する旨の電報が届く。 | |
2月1日 | ヨッフェ入京。ヨッフェを築地精養軒に訪ねて日ソ復交に関して会談。 | |
2月4日 | 加藤首相に宛て当局官権のヨッフェに対する態度を難詰した書簡を発送する。 | |
2月5日 | 日波協会名誉会長となる。この日赤化防止団員が伯邸に乱入し、家財等を破壊する。 | |
2月28日 | 暴漢再び入って乱暴、長男一蔵負傷。 | |
3月2日 | 母堂の告別式執行。 | |
3月3日 | 水沢増長寺で亡母の埋葬式執行。 | |
4月15日 | 亡母の七七日に故人の遺志として東京連合少年団に金1000円を寄附。 | |
4月27日 | 東京市長辞職認可。 | |
5月6日 | 精養軒にヨッフェを訪ねて会談。 | |
5月25日 | 会談の結果「日露内交渉顛末」を刊行。 | |
6月8日 | ヨッフェを訪問し、日露交渉は政府の手に移ったことを伝達。 | |
7月5日 | 上野自治会館において、日本大学学生有志国際連盟研究会主催の国際問題講演会において、国際政治の倫理化を高唱。 | |
9月1日 | 関東大震災。 | |
9月2日 | 山本(権)内閣成り、内務大臣となる。 | |
9月6日 | 帝都復興の議を閣議に提出。 | |
9月13日 | 恩賜財団済生会副会長嘱任。 | |
9月19日 | 帝都復興審議会委員を仰せ付けられ、幹事長となる。 | |
9月29日 | 帝都復興院総裁兼任。 | |
大正13年 [68歳] |
1月7日 | 山本内閣総辞職、本官並びに兼官を免ぜられる。 |
2月25日 | 盛岡市商品陳列所において「政治闘争の倫理化」と題して講演。 | |
2月26日 | 水沢で亡母の法要執行。 | |
4月3日 | 家庭電気普及会創立、会長に推戴される。 | |
4月8日 | 和子夫人7回忌法会を営み、追悼会を帝国ホテルにおいて行う。 | |
9月30日 | 東京市会において再び市長に選挙される。 | |
10月2日 | 市長の選挙を辞退する。 | |
10月16日 | 社団法人東京放送局総裁となる。 | |
10月28日 | 芝増上寺において新政会講習会員のために「政治の倫理化」を講演する。 | |
11月7日 | 上野池端無線電話普及展覧会において初めて放送演説を試みる。 | |
大正14年 [69歳] |
3月22日 | 東京放送局仮放送に際し、挨拶を放送する。 |
3月26日 | 東京を発ち、満鮮の旅へ上る。 | |
4月8日 | 奉天において張作霖と会談、張の中央進出を戒む。 | |
7月3日 | 加藤(高)首相訪問、極東拓殖会社創立の意見を開陳。 | |
7月12日 | 芝愛宕山新築放送局において本放送開始の挨拶を放送。 | |
12月17日 | 万国基督教青年会理事モット博士来日につき、自邸に旅装を解かせる。 | |
大正15年・ 昭和元年 (12月25日昭和と改元) [70歳] |
1月1日 | 「内憂外患ノ諸相ヲ直視セヨ」を東亜同志会から刊行。なおこの日少年団総裁として挨拶を放送する。 |
1月5日 | 自著「公民読本」3巻を刊行。 | |
2月11日 | 建国祭に列して帰邸の後、1回目の脳溢血で臥床。 | |
4月20日 | 青山会館において“政治の倫理化運動”第一声をあげる。この後全国各地を遊説。 | |
7月28日 | 普選準備会の綱領会則発表。 | |
12月25日 | 大正天皇崩御。今上天皇践祚。 | |
昭和2年 [71歳] |
4月8日 | 日独文化協会設立、会長となる。 |
6月15日 | 田中首相を訪問して一書を呈し、対支外交の重要性を警告。 | |
8月4日 | 2回目の脳溢血で臥床。 | |
12月5日 | 最後の露国訪問の途に就く。 | |
12月24日 | 外務人民委員代理カラハンと会見。漁業協約について会談。 | |
12月31日 | 中央執行委員会議長カリーニンと会談。 | |
昭和3年 [72歳] |
1月7日 | 共産党中央執行委員会において党書記長スターリンと会談。 |
1月21日 | モスクワ発、帰朝の途に就く。出発間際に日本政府からの漁業条約調印決定の吉報に接する。 | |
6月10日 | 郷里水沢訪問。 | |
6月12日 | 水沢町内の神社寺院に参詣し、親戚故旧を招待する。 | |
11月10日 | 勲功により伯爵に陞叙。 | |
12月6日 | 日本少年団総長として加盟健児8万の代表4,000人を率い、築地海軍大学校附属地 において天皇陛下の御親閲を賜わる。 | |
昭和4年 [73歳] |
1月16日 | 国民に対する遺言として、電力・保険・酒精(アルコール)含有飲料の三大国営案を手記する。 |
4月3日 | 日本性病予防協会の依頼に応じ、講演のため岡山に向け東京駅発、西下。 | |
4月4日 | 米原附近列車中で第3回目の脳溢血発病。京都に下車し府立病院に入院。 | |
4月13日 | 午前5時30分逝去。特旨をもって正二位に叙せられる。 午後9時54分霊柩京都駅発車。 | |
4月14日 | 午前9時20分東京駅着。 | |
4月15日 | 勅使海江田侍従の御差遣あり、幣帛・祭粢料・生花を御下賜。更に優渥なる御沙汰を賜わる。皇后陛下・皇太后陛下並びに各宮家からそれぞれ御使いが遣わされ、御弔問をいただく。 | |
4月16日 | 青山斎場において葬儀執行。勅使・皇后御使い・皇太后宮御使い・各宮家の御使いが参列される。青山墓地に和子夫人と並んで埋葬される。 |
年 | 月 | |
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昭和5年 | 10月12日 | 大連星ヶ浦公園内霞ヶ丘に伯の銅像建立。 |
昭和46年 | 4月22日 | 水沢公園に残された旧銅像の台座の上にボーイスカウト姿の伯の銅像建立。これはライオンズクラブ年次大会(302E-4)地区の記念事業として建立されたものである。 製作者 米治一氏(高岡出身) |
昭和53年 | 6月5日 | 水沢公園内に建立の銅像除幕式。(これは大連に建立の銅像と同型-朝倉文夫作-のものである。) |