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後藤新平 ゆかりの人々

新渡戸 稲造(にとべ いなぞう)

1862~1933(文久2~昭和8)
新渡戸 稲造

世紀を超えてたつ

文久2年(1862)盛岡藩士新渡戸十次郎の七人兄弟の末っ子として、盛岡の鷹匠小路に生まれました。父が稲造が4歳の時に、48歳で亡くなったため、母の勢喜は甘やかしてはいけないと、東京の叔父太田時敏のもとに養子に出しました。
10歳になると、東京の旧南部藩学校に入り次の年には早くも東京外語学校に入り英語の勉強を始めました。
明治9年(1876)、政府は北海道開拓のためにアメリカからクラーク博士らを招き札幌農学校を開設しました。稲造は翌年二期生として入学し、学費や生活費は国から支給されながら図書館にある文科系の図書は全て読破してしまいました。
16歳のとき、9年間会っていなかった母が56歳で亡くなりました。稲造は、母の手紙を読み返し、母の望むような人になろうと決意を新たにしました。(『何年会えずにいようとも、名高い人の中に指折り数えられるようになったらどれほ嬉しいことか』『いつでも自分はまだまだ至らぬものと思っているのが良く、これで自分は十分だなどと思うのはうぬぼれというものだ。くれぐれもそのような思いを抱かぬように』『一生懸命勉強し、日本はおろか世界に、名を挙げるよう励め』)
札幌農学校卒業後最低5年は北海道開拓のために働く義務があり、稲造は北海道開拓使御用掛勧業課にと農商務省に勤務し、札幌農学校予科教授も兼務しました。
開拓使が廃止されたのを機に東京大学に入学、農政学のほかに英文学も学び『我、太平洋の橋とならん』という考えを持っていました。東大では不十分さを感じ、明治17年アメリカのジョンズ・ポプキンズ大学に入学、3年後にはドイツへ留学しボン大学で農政、農業経済学を研究後、ベルリン大学、ハレ大学でも学びました。
明治22年、新渡戸姓に復帰しました。24年に、メリー・エルキントンと結婚し日本に帰国し、札幌農学校の教授になり教頭及び舎監を兼任しましたが、病気療養のため休暇をとり渡米し、カナダで療養「農業本論」を出版しました。「日本農業発達史」の出版により明治32年日本初の農学博士の学位を受けました。明治33年には、ヨーロッパ視察をし、アメリカで「BUSIDOU, The Soul of Japan」(武士道)を出版しました。
後藤新平民政長官の再三にわたる懇請により明治34年帰国し、台湾総督府技師となりました。次いで民政部殖産課長、殖産局長心得となり、ジャワ島の視察をもとにして「糖業改良意見書」をとりまとめ提出、翌35年、臨時台湾糖務局長を命じられ、砂糖キビの栽培改良や製糖工業育成等に務め、台湾産業発展の礎を築きました。このあと、京都帝大教授、台湾総督府嘱託を経て、明治39年、殖民政策の論文により法学博士の学位を受けました。
第一高等学校長を経て東京女子大学学長となり、大正8年後藤新平と欧米を視察。翌9年、国際連盟事務局事務次長に就任、6年間務め、貴族院議員に勅選(勅撰?)されました。昭和6年帝国産業組合中央会岩手支部会長に就任し、産業組合(今日の農協)育成に尽力しました。昭和8年(1933)カナダでの太平洋会議に日本側理事長として出席し客死、71歳でした。
昭和59年に発行された新5,000円札の図案は、彼の肖像です。
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