

1874~1948

ビーアド博士は、徹底した科学的調査を重んじた政治学者でした。コロンビア大学教授でしたが、偏狂なアメリカ主義を鼓吹する総長と対立してニューヨーク市政調査会事務理事に転じた人です。
ビーアドは、20世紀前半のアメリカの政治学と歴史学に大きな影響を及ぼした人物の一人でもありました。
ビーアドの日本に対する友好性は、後藤の心にも深く刻まれました。
科学的知識の基礎の上に自治政を打ち立てるために市政調査会の設立をみた後藤新平は、その助言を仰ぐために、ビーアドを招請しました。「東京市政に関する意見概要」として、市政調査会の活動に対する助言をまとめました。
ビーアドは、大正11年9月からおよそ6か月間日本に滞在しました。後藤新平は一段とビーアドに敬意を持ちましたが、ビーアドも、「行くところ、閣下の天才を発見せざるはなく、実に閣下の将来に対する御計画は誠に広大にして……(略)」と後藤新平を賞賛しました。ビーアドの言葉は、決して一時的の儀礼的な発言ではありませんでした。
ビーアドが帰国後、半年ほどして関東大震災が発生しました。
後藤新平が内務大臣の親任後、女婿の鶴見祐輔に「ニューヨークのビーアドに電報を打ってすぐ来るように言ってくれ」と命じました。後藤新平が2階にこもって新都市計画を立てましたが、ビーアドも同じような電報内容「新街路を決定せよ。街路決定前の建築を禁止せよ。鉄道の駅を統一せよ」と、後藤新平宛に打ってきました。新平はわが意を得たり、と思いました。
しかし、東京の震災復興計画は必ずしも後藤新平の思い通りにはいきませんでした。それでも、日比谷通り、昭和通り、晴海通りや、墨田、錦糸、浜町の各公園は、現在でも残っている東京中心部の骨格になっています。