後藤新平 ゆかりの人々

司馬 凌海(しば りょうかい)

1839~1879(天保10~明治12)
司馬 凌海

語学の天才で奔放不羇の人

司馬凌海は佐渡の半商半農の家に生まれ、本名を島倉亥之助と言いい、幼いころから神童と謳われ、江戸に出て幕府の奥医師松本良甫の塾に入りました。
しかし、天才と言われた一方で奔放な司馬は、幾度となく問題を起こして、塾をやめさせられます。やむなく下総佐倉の順天堂に学びますが、ここもやがてやめて佐渡へ帰ります。
安政4年、知己の松本良順(後の軍医総監・松本順)が長崎の医学伝習所でオランダ医ポンペから西洋医学を学ぶことになったとき松本は、かねてからその非凡な才能を認めていた司馬を呼び寄せ、長崎に帯同しました。そのとき司馬は19歳でした。
司馬は、期待通り、神業とも言えるほどの上達ぶりで、ポンペの講義を通訳しながら、自分はそれを漢文で筆記できるほどの力を持っていました。
ウィリス、ミュラー、ホフマン、ヨングハンスらの日本の近代医学の幕開けをしたお雇い教師の傍らには必ず、司馬が影のように存在し、オランダ語・ドイツ語・フランス語・英語・中国語を操って彼らを補佐しました。
明治の学問は、翻訳から始まったと言われていますが、彼は明治5年、日本最初の独和辞典を編集し、またドイツ語の塾を開いています。
明治9年、司馬はローレツの通訳兼医学教師として愛知県病院・医学校に赴任しました。
ローレツは「ウィーン医事新報」への寄稿文の中で「私の通訳兼筆頭助手である司馬氏(中略)が薬局や手許にある薬品の点検や、ラテン語のラベルを貼る仕事を引き受けてくれた。」と、彼の仕事ぶりに触れています。
司馬は、明治10年4月まで、この病院と医学校に勤務したあと開業しました。私立の医学校と病院を設立する計画を持っていたようですが、肺患にかかり、わずか41歳で亡くなりました。
語学の天才であった司馬は、奔放不羇な性格が災いして大成せずに終わったのです。

新平に裁判医学への目、開かせる

新平は名古屋到着後1箇月ほどして司馬の塾に入り、そこから愛知県病院に通いました。
新平が司馬の塾にいたのは1年あまりですが、時々、彼の翻訳の口述筆記の手伝いをして10行20字、1枚1円50銭の原稿料から15銭ずつもらったりしています。新平も、司馬のよどみない翻訳ぶりに驚きました。
この時に衛生警察及び裁判医学の翻訳の手伝いをしたことが、新平にこの分野への関心を向けさせ、ローレツに働きかけてこの医学校に裁判医学の開講を見るに至ったのです。後年、新平が「相馬事件」に係わるようになったのはこの翻訳の手伝いと裁判医学・精神医学の勉強が根底にあったからです。
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