後藤新平 ゆかりの人々

石黒 忠悳(いしぐろ ただのり)

1845~1941(弘化2~昭和16)
石黒 忠悳

西洋医学を志向

石黒忠悳は父の任地の福島県梁川で生まれ、幼名を庸太郎といい、元服して忠恕、さらに忠徳と改め、後に徳の古字の悳を使い忠悳と改めました。
漢学を父から学び、17歳で家塾を開き書生を養成しました。元治元年、江戸に出て整骨医の大家・名倉弥五郎につこうとしましたがその示唆もあって、今後の医学は西洋医学でなければならないことを悟り、医家の柳見仙についてオランダ医学を学びました。

わが国軍医制度を創設

明治2年、石黒は大学東校(後の東大医学部)に職を奉じましたが、のち陸軍に転じ、明治10年の西南の役では大阪臨時病院長を命ぜられ、傷病兵の治療に当たりました。その間、アメリカに派遣されて、南北戦争の研究調査を行い、それにより、戦時病院の組織や活動について、造詣を深めました。
その後、日本軍医会の柱石となり、わが国の軍医制度の創設に尽くし明治22年、陸軍軍医総監となりました。また、日本赤十字社の創設やその看護婦の養成に意を注ぎ、大正6年、第4代社長に就任しました。
石黒が大阪陸軍臨時病院の院長となったことは、医学会でも大いに注目されました。
新平は愛知県病院に勤めていましたが、この陸軍臨時病院の成績が天下に知れ渡っていることに鑑み、院長石黒の門をたたいて外科治療の実地研究をしたいと申し出、傭医となりました。

新平の非凡さを知った石黒

石黒が後藤新平の名を知ったのは、明治3年、福島の須賀川医学校長塩谷退蔵から「高野長英の親類ですこぶる鋭敏な少年がいる」と聞いていました。
また、名古屋師団軍医部長・横井信之からも名古屋の医学校の新平は「頭脳明晰で、成績抜群、後年、必ずものになる。」と聞いていました。
こうした経緯で陸軍臨時病院で働くこととなり、数十人の患者を預かる独立の医師となった新平は、石黒の指導でその技倆上達は驚くべきものがありました。石黒は愛知県病院に復帰し病院長兼医学校長となった新平に内務省衛生局入りを勧めました。
明治25年、新平は36歳にして衛生局長となりました。

不眠不休の検疫事業

日清戦争後の戦後防疫対策として大検疫所設置を主唱したのが石黒であり、その臨時陸軍検疫部事務官長となったのが新平でした。
明治28年、新平は百万円をかけて3箇所に検疫所を設け、日清戦争の帰国将兵等23万人の検疫と306隻の船舶の消毒を実施、不眠不休で力闘し、これらをわずか2箇月で完了しました。
この将兵検疫事業は世界で初めて行われたもので、その成果についてドイツ皇帝ウィルヘルム2世から激賞されました。
その後、新平は石黒と長与の推薦によって、再び内務省衛生局長の地位につきました。
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