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『夢物語』
   作者名:高野長英
   制作時期:原著書 天保9(1838)年
   所蔵者名:高野長英記念館

『夢物語』は、日本漂流民を乗せて渡来したアメリカ船モリソン号をめぐる幕府の対外政策を批判した長英の著作である。
長英は、イギリスの国力について具体的なデータをあげて説明し、同国の勢力が日本近海の島々におよんでいる事実をあきらかにする。そして、モリソン号が漂流民の送還を口実に人道の名をかかげて渡来した場合、これに打払いをもってのぞんだら、イギリスは日本を「不仁の国」とみなすであろう、と打払いに反対し、モリソン号の入港を認め、漂流民をうけとった上で、交易の要求は拒絶すべきであると主張する。このような長英の意見が問答形式で記されており、夢の中の集会で見聞した話という体裁をとることで幕政批判の罪を逃れようとしたが、夢物語は写本としてかなり流布し、社会的反響をよんだ。これが原因となり、長英は蛮社の獄で幕府に捕らえられ、永牢の身となった。尚、『慎機論』を著した渡辺崋山も同様の罪で捕らえられ、国元にちっ居を命ぜられた。
本資料は、新潟県直江津の福永家に所蔵されていた『夢物語』の写本である。


釈文(上段)・読下し文(下段)
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夢物語

冬ノ夜ノ更行マゝニ人語モ漸ク聞ヘ履声モ稀ニ響キ妻戸
ニ響ク風ノ音スサマシク最物凄サニ物思フ身ハ殊更眠リモヤラ
レス独リ机ニ倚テ燈ヲ掲テ書ヲ讀ケルニ夜イタク更ヌレハイツシカ
眠ヲ催シ気モツカレ夢トナク幻トナク恍惚タル折節或方ヘ招カレイト廣
キ座敷ニイタリケレハ碩学鴻儒ト覚シキ人々数十人集會メイロイロ物語
シ待ケル其方中ニ甲ノ人乙ノ人ニ向テ云ケルハ近来珍ラシキ噂ヲ聞
ニ英吉利国ノモリソント云モノ頭ト成テ船ヲ仕出シ日本漂流人七人
乗セ江戸近海ニ船ヲ寄セ是ヲ餌トシテ交易ヲ願フ由和蘭陀ヨリ


夢物語

 ある冬の夜のことであった。夜が更けるにつれて、道行く人の声も途絶えがちとなり、下駄の音もまれにしか聞こえず、妻戸を吹きならす音が物悲しく響き、無気味なばかりである。しかし、私は、その夜、国の運命を案ずるあまり眠ろうともせず、ひとり机に向かい、燈をかかげて、読書にふけっていた。そのうちに夜もいっそう深まったので、眼も心も疲かれはてて、夢ともなく、まぼろしともなく、うっとりたした気分におそわれた。
 ふと気がついてみると、私はある屋敷に招かれて、たいへん広い座敷に通されていた。そこには名高い学者先生と思われる人達が数十人集まって、議論に花を咲かせていた。
 そのうちに甲の人が、乙の人に向かって次のような質問をした。
「近頃珍しい噂を聞きました。『イギリス国のモリソンという者が指揮官となり、船の準備をして、日本の漂流民七、八人を乗せ、江戸近海の港に渡来して、漂流民の護送を口実に、交易を願おうとしている。』ということを、長崎在留のオランダ人が

 

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申出ントナシ抑英吉利国ト云フハ如何ナル国ニ候ヤ乙ノ人答ケルハ英吉
利国ト申ス国ハ阿蘭陀国王都アハステルタシムト申所ヨリ百八十里許
モ隔リ順風ノ時ハ一日夜位ニテモ通船イタス所ニテ国之大サハ日本ホト
モコレ有ヨシニ候ヘトモ寒国ニテ人数ハ日本ヨリ少ク總括シテ人口一千
七百七十萬六千人ト申候国人敏掟ニシテ事ヲ勉強シ怠惰セス文
学ヲ勤メ工技ヲ研究シ武術ヲ練磨シ民ヲ富シ国ヲ彊クスルヲ先務
ト仕候海濱浅灘礁多ク外冦入カタク候ニ付近来歐羅巴大乱ノ
時モ英吉利ハ孤立シテ国民干戈ノ災ヲ免レ申候国都ロンドント申
所ハ至テ繁昌ノ所ニテ待坊美麗人戸稠蜜ニシテ人口ノ凡百萬許
モ居リ候由海運ノ都合宜シキ所ニテ専ラ諸方交易ヲ改メ諸国


申し出たということです。いったいイギリスという国は、どのような国なのでしょうか」
 乙の人が答えていった。
「イギリスという国は、オランダの北にある島国です。オランダの首都アムステルダムから、海上およそ百九十八里ほど離れた所で、順風のときには、一昼夜くらいで船が往来できます。国の大きさは、日本と同じ程度だということですが、寒い国のせいか、人口は日本より少なく、全体で一千七百七万六千人といわれています。国民性は活動的であり、かつ探求心が旺盛で、物事を研究して飽きるということがありません。好んで学問に励み、工技を研究し、武術を練磨し、民を富まし、国を強くすることを、第一の目標としております。海岸には浅頼や暗礁が多く、外敵の侵入が困難であるという地勢の利点に恵まれています。ですから、近年ヨーロッパの大乱(ナポレオン戦争)が起こった際にも、ヨーロッパの国々のすべてに戦火が及んだにもかかわらず、イギリスだけは地理的に孤立していたおかげで、国民がその災害をのがれることができたほどです。
 首都はロンドンといって、繁栄をきわめた町で、街並が美しく人家が多く集まり、人口およそ百万人といわれております。ここは海運の便に恵まれているので、貿易の中心となり、イギリス人はここを拠点として諸国

 

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ニ航海仕リ不毛ヲ開キ人民ヲ蕃殖シ夷人ヲ教導シテ服従セシメ此節
ニ至リテハ外国領分ノ人数ハ七千四百廿四萬人ト申候左候得ハ本国四
倍ニモ至リ申候其国々ノ名ハ一ツハ北アメリカ南アメリカ西側ニ候
二ハ西印度ト名付テ南北アメリカノ間ノ嶋也三ハアフリカ州ノ内ニテ
天竺ノ西南ニ当ル四ハ新阿蘭陀ト申テ日本極南ニアタリ五ハア
メリカト申候テフラシリト国名コイ子ア并カリホルニア邊ニテ日本ノ
東ニ当ル所也六ハ又天竺ノ内モコル抔唱候国中ニテ雲南邏羅ノ
南ニテ天竺ノ地ニ候七ハ東天竺ト申テ日本ノ近海南洋ノ諸嶌無
人近所ヨリ南ノ嶌ニテ候以上国々夫々役人共ヲ差向ケ支配イタサ
セ候故其者共ノ乗候船ハ軍船ニテ一船ニ石火矢四五十門モ備ヘ


に航海し、未開の土地を開き、植民をおこない、未開の原住民を教え導き、服従させ、その結果、現在では海外の領土の総人口は、七千四百二十四万人に達したということです。ですから、その人口は、本国の四倍にあたるわけです。
 その領土の名は、一つは北アメリカ(カナダ)といい、アメリカ合衆国の北側にあります。その二は、西インドといい、北アメリカと南アメリカ州との中間にある島々です。三はアフリカ州のうちにあって、天竺(インド)の西南にあたる地域です。四は新オランダ(オーストラリア)といい、日本の極南にあたる地域です。五は南アメリカ州のうち、ブラジリイ(ブラジル)、コイネア(ガイアナ)及びカリホルニア付近で、日本の東にあたる地域です。六はインドのムガールなどという国のうちにあって、雲南・シャムの南部の地域です。七は東インドといって、日本近海の南洋諸島、無人島(小笠原諸島)付近から南の諸島です。
 イギリス政府は、以上の国々にそれぞれ役人を派遣して支配しております。これらの役人が利用する船は軍艦で、一艘につきそれぞれ四、五十門の大砲を備えたものを建造し、この船で彼らを任地に派遣することになっているということです。

 

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差ツカハシ候由ニテ其船ノ数ハ二萬五千八百六十艘ト申候其船ニ
ノリ候上役人ハ都合十七萬八千六百二拾人下役人ハ四十萬六千人
水主コンロン等取集括百萬程モコレ有リ誠ニ廣大ノ事ニ相聞申
候右故自然航海ノ術并水軍ニハ殊ノ外熟練仕リ外国出張次
第ニ廣大ニ相成交易ノ道モ漸々旺盛ニ相成五大州比駢無之
様ニ相成候ニ付諸方ノ者共是ヲ恐羨ミ申候由支那ニモ
前々ヨリ交易仕候ニ付廣東側ニ地所ヲ給リ商館ヲ営シ總
督并偖役人ヲ差遣シ置年々南海諸島并アメリカ産物ヲ
数十艘ニ積廣東ヘ輸送イタシ専ラ茶ト交易仕候右ヲ本国ヘ
送リ候事ニナシ然ル處イキリスハ雲南邏羅辺ニ領分所有リテ


 その軍艦の数は二万五千八百六十四艘あり、これに乗る上役のものは、合計十七万八千六百二十人、下役は四十万六千人、ほかに水夫、雑役に服する黒人、料理人などを合わせると、百万人ほどになりましようか。まことに大規模なものだと聞いております。
 こういうしだいなので、とくに航海術が優れ、また海軍力がことのほか充実しております。またこれにともなって外国の領土が広大になり、交易もしだいに盛んになり、およそ五大州中、イギリスに匹敵する国がありません。そのため西洋諸国は、イギリスに羨望の念を抱くとともに、一方では、警戒を怠らないということです。
 イギリスはシナ(中国)とも以前から交易しております。広東付近に土地を与えられ、ここに商館を建てて、総督や役人達を派遣し、毎年、南洋の諸島やアメリカの産物を集荷し、数十艘の船に積み込んで、広東一帯に輸送し、もっぱら茶と交換して、これを本国に送っております。ところがイギリスは雲南・シャムの付近に領土を持っており、

 

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支那ノ属国ニ界ヲ接シ候ニ付邊民共擾乱仕リ堺ヲ越互ニ闘
争接戰仕事時々有之候故支那人イギリス人ヲ疎ミ申候加フルニ
ホルトカル即日本ノ南蛮ト唱ル国ナリ阿蘭人廣東ヘ同様交易仕候ニ付イキリス
ノ交易盛ニ相成候ヘハ自然ト自己ノ衰微ニモ相成候故イロイロ
讒言ヲ搆種々誹謗仕候ニ付元ヨリホルカル和蘭陀ハ清朝革命ノ
此大功モコレ有リ夫ニ廣ク地面ヲ給リ外ナラヌ親愛ヲ受候モノ儀ニ付
右讒ヲ信シ猶々イキリスハ忌憚ラレ交易物取捌キ方モ不宜既ニ乾
隆年中ノ比ハ貸ノミ日ニ増シ崇ク相成交易方立行不申候ヤウ
ニ至リ候依之本国ニテモイロイロ評議イタシ以来廣東交易方相休メ
候方可然抔申候説モ有之候処近来イキリスニテ茶殊ノ外流行仕


これがシナの属国と境を接しているため、国境付近の住民が互いに国境を越えて交戦するという事態がときどき発生するのです。そのためシナ人は、一般にイギリス人に対して好意的ではありません。
 これに加えてポルトガル人(彼らのことを日本人は南蛮と呼んでおります)やオランダ人なども、同様に広東で交易を行っておりますが、イギリスの交易が盛んになると、自然と自国の交易が衰退することになります。そこで彼らは、広東の役人にイギリスにとって不利な告げ口をしたり、非難するといったことをいろいろやったのです。もともとポルトガル、オランダ両国は、清朝革命のころ、清朝に味方して大いに手柄をたてたということがあったので、それぞれ広い土地を与えられ清朝政府の信頼が厚いため、政府はそのまま両国人の偽りの言葉をそのまま鵜呑みにしてしまいました。そのためイギリス人は一層忌み嫌われる始末で、交易にもその影響が及んで、不振におちいり、すでに乾隆という皇帝の頃には、未払い勘定ばかりが日増しに増加し、交易が完全に行き詰まってしまいました。そこで、本国でもこの問題をいろいろ協議したところ、広東貿易を中止すべきだという説さえ出ました。しかし、近頃イギリス本国では茶を楽しむことが大変流行し、

 

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人々相用候儀ニ付支那交易相休メ候得ハ人々迷惑ニ相成且又
イキリス領南海諸嶌天竺及アメリカ辺茶モ多クコレ有レトモ其品
支那ニハ遥ニ劣リ其上沢山ニハ産シ不申候交易相休候事何ハ成
カタク尚亦評議致候處右交易方不取捌儀ハ廣東下役人ノ所
為ニテ全ク支那ノ意ニ出ルニハコレ無キヤウ存シシラレ候ニ付其時嘉
慶帝誕生有之間右誕生ヲ賀シ貢物ヲ数多北京ニ呈シ候ヲ名
トシテ使節ヲ遣シ直ニ帝ヘ愁訴仕候方可然ト申事ニ一決シ
本国ヨリ人物ヲ撰シコルトマカルテ子リト申者其撰ニ当ル正使ニ
仕リ天文地理医術物産ハ未熟ノ由ニ存右熟練仕候者ヲ撰ミ同
船為仕右ニ関係仕ル書籍ハ勿論諸器諸物ニ至ルマテ一切相整其


喫茶が大衆化したため、広東貿易を中止すれば、茶が少なくなり国民生活にも影響が出てきます。また一方で、イギリス領南海諸島、インドやアメリカの辺にも茶が多く産出するのですが、品質がシナ茶に比べるとはるかに劣ります。そのうえ、今すぐシナ茶に代わつて需要を満たすほど、大量に生産できるわけではありません。したがって、広東交易を中止するということもできかねます。そのため、更に協議したところ、広東貿易の不振は、広東の地方役人のせいで、まったくシナ皇帝の意志によるものでないと判断されました。そこで当時、乾隆帝に子(嘉慶帝)が生まれたので、その誕生をお祝いし、貢物を北京の朝廷に献上するという名目で、使節を派遣し、直接皇帝に訴えるのがよかろうということに決まりました。イギリス政府は、人選の結果、ロルドマルテネー(ロード・マカートニー)を選んで、彼を正使に任じ、またシナでは天文学・医術・物産学が未熟だということなので、これらの学術に精通した者を選んで同船させることにし、これらに関係した書籍はもちろん、諸器物にいたるまでいっさい準備し、

 

1/3|2/33/3蛮社遭厄小記長英の著作