41才〜45才  1844年(弘化元)〜1848年(嘉永元)


牢を脱走した長英は、郷里にいる母親のもとをめざす。
この逃亡ルートには、いまだ謎が多い。
母との再会をはたした長英は、再び江戸に戻り、江戸周辺に身を隠す。

この時代の長英について詳しく知りたい方は、下にスクロールして下さい。



41才〜45才  1844年(弘化元)〜1848年(嘉永元)

弘化元年(1844)6月30日の牢屋火災で解き放されそのまま逃亡した長英の足取りは不明なところが多い。

昭和18年刊行「高野長英傳」で、多くの伝聞を収集検討した高野長運が長英の足取りを次のように推定した。
脱走した長英は、まず、シーボルトの門人の蘭方医で仙台藩ゆかりの大槻俊斎を訪ねた。その後、牛込赤城明神社境内の加藤宗俊を訪ねる。宗俊は獄内の長英を助け、放免運動もしていた門人である。
次いで、四ッ谷相之馬場(現在の紀尾井坂下)に、かつての同志で尚歯会の主催者であった紀州藩儒者の遠藤勝助を訪問した。それから1ヶ月後の7月下旬、板橋で医者を営む門人水村玄銅を訪ねる。1、2日滞在したが、危険を感じた水村は、7月晦日、大間木(現在の浦和市)の兄、高野隆仙のもとに長英を送り届けた。隆仙は長英の門人で、今も長英が隠れたと伝えられる離れが残されている。しかし、この場所も危険になり、中山道を大宮、熊谷、高崎を経て多くの門人がいる中之条方面に向かい、高橋景作、柳田鼎蔵らの門人を頼って上州に身を潜めた。
その後の弘化2年10月頃、郷里の水沢で母との再開を果たす。郷里を後にした長英は、名取郡玉浦村字早股に隠居していた仙台藩士斎藤徳蔵、福島の油谷藤兵衛の元に立ち寄り、米沢藩医の旧友堀内忠竜を米沢に訪ねた。ここでは、堀内の門人高橋家膳の家で数ヶ月身を隠し、弘化3年晩春江戸に再潜伏した。江戸にもどってからは、一時、韮山代官江川の世話で相模国足柄上郡にも隠れたといわれる。

いずれにしろ、幕府の捜索を逃れ、老母との再会を目指す長英の潜行ルートは、今なお謎であり、新たな資料の発掘などにより再検討することが必要とされている。