4. 天保の大飢饉
![]() 「荒歳流民救恤図」部分(崋山筆) |
この飢饉はたんに自然災害として発生したものではなく、人災・政災に転化することによって、当時の幕藩体制のありかたの問題となった。
天保の飢饉はまず冷夏による不作が続き、米の収穫量が大激減したところに、幕府による江戸廻米の独占や都市特権商人らの買い占めなどで米価が高騰し、東北地方では多くの餓死者が発生し、その数は数十万人におよんだ。
長英は飢えに苦しむ人々を救うため、1836(天保7)年に『二物考』を書き、馬鈴薯と早蕎麦の栽培法や調理法を世に広く紹介した。
5. 町医者
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また、町医者は様々なかたちで幕政にもかかわっている。養生所が設立されると、そこで実際に働いたのは彼らであり、また、軍陣や辺境の医療にもかかわった。