1. 高野長英関係系図
■高野家
長英が養子となった高野家は、関ヶ原の戦いの直前、伊達政宗の白石城攻めで降伏した高野佐渡守勝氏(タカノサドノカミカツウジ)に始まる。勝氏はもともと上杉謙信の家来で、このとき会津上杉家に仕えており、降伏後、水沢留守家の祖である留守政景(ルスマサカゲ)の家臣となった。東大畑小路(現在の大畑小路)に現在も屋敷があり、国指定史跡「高野長英旧宅」として保存されている。家柄は、「二番座御召出」で後藤家の次にくる。石高は、1628年(寛永5年)が1貫文、1739年(元文4年)から1790年(寛政2年)で553文、慶応年間で552文と記録されており、長英が養子となったころの生活状況にゆとりはなかった。
■後藤家
後藤家は石高3貫6百48文、留守家臣の中では御一家衆、準御一家衆、一番着座、二番着座につぐ「一番座御召出」という家柄であった。屋敷は城の南側、給主小路(現在の吉小路)にあった。現在、長英誕生の地からやや離れた南西の場所に、「高野長英誕生地の記念碑」が建てられている。
2. 高野玄斎
たかのげんさい 1771(明和8)年〜1827(文政10)年

高野玄斎 |
高野玄斎は高野玄端の嫡子で、江戸に留学し、当時有名な蘭方医だった杉田玄白の天真楼塾に入り、大槻玄澤らとともに蘭方医学を学んだ。水沢に帰郷した後、医者となった。
玄斎が玄白や玄澤と文通していたことは知られているが、現存する書簡には、学問的なことは記されていない。長英が養父玄斎から蘭方医学の手ほどきをうけたという記録は残っておらず、かりに玄斎から医学を学ぶことがあったとしても、レベルが低く、長英の向学心を満足させるものではなかった。
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3. 後藤湛斎
ごとうたんさい ?〜1823(安政6)年
長英の兄。父後藤惣介実慶と後妻として迎えられた美也との間に長男として生まれる。湛斎は江戸留学中、1822(文政5)年に留守家の医師であった坂野長安の養子となるが、坂野家に入ったかどうか定かではない。湛斎はその後江戸で開業するが、病魔におそわれ、回復の見込みがたたないため、長英が泊まり込みで看病にあたるが、その甲斐もなく、1823(文政6)年、堪斎は病死した。