4. 千越
![]() 千越 |
しかし、元恭は結婚を前に女性と逃げ、行方をくらましてしまう。長英の帰りを長い間待ち続けても果たせなかった千越。今度は元恭とも不縁となってしまった。千越と元恭の間に何があったか知るすべはない。しかし、元恭の方に千越との結婚を拒む理由があったようである。高野家の断絶回避と女の幸せ、その間で揺れた千越の心にまたしても深い傷を負わせることになった。不憫な千越に手紙をしたためる長英ではあったが、すでに帰郷の意志はなく、「おまえは今は表向きは娘の事・・・・・・この上はまたまたよき人をもらい、あとかた良きよういたしたく、・・・・・・おまえもさぞかし御うらみもあらん。母さまには、いかばかりお腹立ちあるべきや、おまえより良きようにお詫びを申しくだされべきそうろう。おまえにも何事もこらえて御ゆるし下されべきそうろう」と因果を含めている。
千越が仕えていた留守家奥方様もこの不幸に同情され、留守家からは高野家安泰の書面が下されたと伝えている。千越の心を慰めるために奥方様が贈ったと伝えられる琴が、記念館にひっそりと展示されている。
5. 茂木恭一郎
茂木恭一郎は、長英といとこの間柄である。長英を尊敬し、敬服していた。長英の母の弟茂木左馬之助の嗣子である。左馬之助はよく甥の長英を理解し、一生涯長英の力になった人物であったが、その嗣子恭一郎も父と変わりない好意を持ち続け、特に左馬之助死亡の後も長英を色々な面で支えた。長英もなにかと恭一郎を頼りにし、事あるごとに手紙を寄せている。
6. 吉田長叔
「解体新書」の翻訳者の一人である桂川甫周の門人で蘭書により医学を研究した蘭方医で、加賀藩の医者も兼ねていた。文化9(1812)年に西洋内科を唱えて開業するが、公然と西洋内科を唱えて治療に従事したのは長叔が初めてであった。長英は江戸留学中、長叔の家塾蘭馨堂の門人となり、西洋内科を学んだ。長英は師である長叔の一字をもらい、「卿斎」から「長英」に改名した。