
(神奈川県南足柄市)
四国の宇和島に潜伏する前の一時、長英は、伊豆韮山(ニラヤマ)の代官、江川英竜(エガワエイリュウ)の世話で、相模国足柄上郡(サガミノクニアシガラカミグン)に身を隠したと言われる。が、神奈川県南足柄市の周辺のどこなのか、「高野長英傳」などはその場所を特定していない。
「蛮社の獄」の引き金となった江戸湾調査で鳥居燿蔵の恨みをかったのが江川である。
なお、長英は、弘化3年(1846)、内田弥太郎から頼まれ「遜謨兒四星編」と「星学略記」を翻訳しており、この足柄の地で執筆したと考えられている。
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(長崎県長崎市)
オランダ商館が出島に置かれた長崎は、江戸時代の蘭学のメッカであった。シーボルトが文政6年(1823)に来日し「鳴滝塾」が開かれてからは、さらに多くの人々が集まった。高野長英もこの鳴滝塾で、文政8年(1825)から同11年(1828)までの3年あまりシーボルトに蘭学と外国情勢を学んだ一人である。
この長崎留学中の文政10年(1827)冬から翌春にかけ、長英は採薬のために壱岐、対馬へでかけ、シーボルトの日記では朝鮮に渡ったとも言われる。
この旅行から平戸に帰った長英に、養父高野玄斎の死が知らされた。同年、シーボルト事件が起こり、長英は長崎を後にした。

シーボルト胸像 |

シーボルト宅跡 |
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(大分県日田市)
大分県西部の筑後川上流に位置する日田市は、江戸時代、九州の幕府領を管轄する日田代官所が置かれ、豪商が居住し金融業に活躍したところである。
この日田に、儒学者の広瀬淡窓(ヒロセタンソウ)が開いた塾「咸宜園(カンギエン)」があり、大村益次郎など多くの門人が輩出された。
シーボルト事件で長崎を後にした長英が、熊本を発って江戸に向かう旅の途中に立ち寄ったとされる。ただ、旅中の診療記録である「客中案証(キャクチュウアンショウ)」に日田周辺の地名が無く、日田立寄りに懐疑的な意見もある。

咸宜園全景 |

咸宜園内庭 |
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