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世界遺産登録候補地 長者ヶ原廃寺跡
長者ヶ原廃寺跡は、約1000年前に建てられた寺院の跡です。いつ、誰が建て、何という名なのか、残念ながら記録に残されていませんが、15回の発掘調査でおおよそのことが分かっています。
それによれば、遺跡には3棟の礎石建物(地面に大きな石を据え、その上に柱を立てて建てられた建物のこと)とそれらをロ字形にとりまく築地塀が発見されています。
築地塀とは土でできた塀のことで、型枠の中に土を入れ、それを突き固めて造ったものです。当時は格式の高い寺院や役所でなければ造ることは許されていませんでした。岩手県内では復元されたものを盛岡市の志波城古代公園で目にすることができますが、造るのには大変な労働力が必要とされていたようです。このことから長者ヶ原廃寺跡は、相当な権威と権力がある人物によって建立されたと推測することができます。1000年前の衣川周辺でそうした人物は、奥州藤原氏の母方の祖先である安倍氏以外に見あたりません。事実、長者ヶ原廃寺跡の周辺には安倍一族の屋敷が軒を連ね、藤原清衡の叔父にはお坊さんがいたという記録が残されています。
長者ヶ原廃寺跡には3棟の礎石建物が建てられていましたが、残念ながら現在ではその建物を見ることはできません。おそらく、前九年合戦(1051~1062年)で安倍氏が源頼義・義家父子に滅ぼされたと同時に失われたものと思われます。
3棟の建物は、ロ字形に巡る築地塀に囲まれています。中央よりやや北側にあるのが本堂で、そのすぐ西側には西建物が、本堂のまっすぐ南には南門があります。
これらの建物の中軸線はそろえられていて、高い技術で建立されていたことが分かります。本堂と南門の中軸線を南に延長すると、中尊寺が鎮座する関山の最高点に到達します。2つの建物の標高差は1mあり、本堂から正面を望むときに南門が視界を遮らないように工夫されています。また、本堂の東に建物はありませんが、本堂から東に目をやるとかつて桜の名所だった束稲山が美しい姿を見せています。西建物が本堂の西側に建てられたのは、束稲山への眺望を確保するためだった可能性も考えられます。
このように長者ヶ原廃寺跡は、藤原清衡が平泉に中尊寺を建立する以前から衣川に仏教文化が華開いていたことを伝えるとともに、平泉文化がどのように形成されていくのかを明らかにする上で欠くことのできない重要な遺跡なのです。
アクセス
※東北自動車道平泉前沢ICから車で約5分
※前沢駅から車で約8分