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(3)名古屋時代

印刷用ページを表示する 更新日:2022年7月12日更新
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愛知県病院長時代

 

【健康警察医官ヲ設クベキノ建言】 〔「愛知県公立病院及医学校第一報告中」より〕

  明治11(1878)年10月

  当時愛知県病院の二等診察医だった新平は、伝染病などの予防衛生を担当する医官を愛知県内の病院に設置すべきとの建白書を、愛知県令・安場保和に提出した。この構想は、同年12月、内務省衛生局長・長与専斎へも提出され、長与の目にとまったことで、新平が内務省へ転じるきっかけとなった。

  健康警察 建言1

   (中略)

  健康警察 建言2

 

 

【連合公立医学校設立之儀ニ付建白】

  明治14(1881)年 

  明治10(1877)年頃には、全国の病院では医学校を付属させて医師を養成するようになったが、府県ごとの経営では財政が厳しく、教員や設備の不足など課題を抱えていた。そこで新平は、地理の便宜を考慮した数県が協同で経営する連合公立医学校設立案を愛知県令・国貞廉平に建白した。(このときは、愛知、岐阜、三重の3県の連合を計画)

  連合公立医学校設立1

   (中略)

  連合公立医学校設立2

 

 

【地方医学教育改正之意見】

  明治15(1882)年12月

  愛知県医学校長・後藤新平より、文部省専門学務局長・濱尾新に宛てた意見書。

  地方医学教育改正の意見1

※濱尾新(はまお あらた/1849~1925)…旧豊岡藩士。明治から大正にかけての教育行政官、政治家。子爵。文部大臣、元老院議官、貴族院議員、枢密顧問官、枢密院副議長、枢密院議長、内大臣を歴任。