黒石寺蘇民祭とは

更新日:2024年02月21日

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 黒石寺蘇民祭は、奥州市水沢にある妙見山黒石寺にて旧正月7日から翌早暁にかけて、五穀豊穣、無病息災を祈って行われる1,000年以上の歴史を有しているお祭です。

黒石寺蘇民祭を含む「岩手の蘇民祭」は「記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財」として、平成7年に文化庁の選択を受けました。

令和5年12月、黒石寺は、祭りを担う関係者の高齢化と今後の担い手不足により祭りを維持していくことが困難な状況となったため、「令和7年以降の黒石寺蘇民祭は行わない」ことを発表しました。黒石寺蘇民祭は、令和6年2月の開催を最後に長い歴史に幕を下ろすこととなりました。

周りに煙が立ち込める中、ふんどし姿の8名の男性たちが手に棒や提灯を持って祈願を行っている様子の写真
大勢の観客とふんどし姿の男性たちが会場にひしめき合っている様子の黒石寺蘇民祭の写真

蘇民祭行事の内容

裸参り(夏参り又は祈願祭ともいう)

 裸の男たちが鐘の合図で社務所前に集まり、各自角燈(四角ともいう)と割竹にはさんだ浄飯米(おはんねり)を持ち、瑠璃壺(るりつぼ)川(山内川)で身を浄め「ジャッソー・ジョヤサ」の掛け声で、薬師堂、妙見堂を巡り、五穀豊穣、災厄消除の祈願を行います。

柴燈木登(ひたきのぼり)

 鐘の合図で行列をつくり腰をかがめて、「イヨーイヨー」の掛け声で、柴、たきつけ、ごま殻、塩をもって進みます。 本堂前に前日に境内の山中から採れた生松割木(長さ5尺に切って二つ割にしたもの)を井桁に3メートル以上の高さに2箇所(昔は3箇所)積み重ねて火を焚き、若人、群集は裸になり柴燈木の上に登って火の粉をあびながら山内節(やまうちぶし)(詳細はページ下部「山内節(やまうちぶし)」の箇所をご覧ください。)をうたい気勢をあげ祈願します。

別当登(べっとうのぼり)

 鐘の合図で社務所に集まり、手木(祓棒)が祓人(はらいびと)に配られ、別当(住職)並びに蘇民袋を捧げもった総代が守護役、祓人に前後を守られ、ホラ貝、太鼓等を従えて薬師堂内陣に登り、護摩焚き供養を行い、参拝者、祈願者に護摩を授けます。

鬼子登(おにごのぼり)

 檀家の7歳になる男子2名に麻衣を着せ、籠手をつけさせ、木槌(さいづち)を持たせ、鬼面を逆さに背負わせ、素裸で水垢離(みずごり)をとりとった大人に背負われ薬師堂に登り、参拝します。

蘇民袋争奪戦

 鬼子登りの式が終わると、蘇民袋(そみんぶくろ)争奪戦(蘇民ねじり又は蘇民びきともいう)が始まります。五穀豊穣、無病息災を願って故事にならい、疫病の護符である將軍木(かつのき)を削って六方形とし、面毎に「蘇民」「將来」「子孫」「門戸」「也☆・(星の中に黒点)」(そみんしょうらいしそんもんこなり)」の九字を書き、寸角に切って麻袋に入れた「蘇民袋」を檀徒の1人が抱き、外に向って「蘇民将来」と3度叫び終るや、裸体の若者達がこれを奪いあい、堂の外陣は八方から袋を目がけて飛びかかる肉弾相うつ、るつぼと化します。堂の外陣で一揉み揉んだ挙げ句、裸形の群は堂外へ潮のごとく押し出されてきます。氷点下、寒冷積雪の中である。西に奔り、東に飛んで、生きものの如き袋の行く方を追って奪ったり、奪い返えされたり、汗みどろの争奪戦が明け方までくりひろげられます。白一色の中に展開される男性美の極致です。かくて激闘3時間近くに及び、ようやく夜が明けそめる頃、取主が凱歌を挙げる時刻となり、袋を奪った者の地が五穀豊穣が約束されるといわれています。

蘇民祭の歴史

 蘇民将来の最も古い文献は、和銅6年(713年)あるいは延長2年(924年)に官符により上げられた『備後風土記(びんごふどき)』の逸文の中にあり、「疫隈(えのくま)の社。昔、北海に居られた武塔の神が、南海の神の女子をよばいにお出かけになられたところ日が暮れた。かしこに蘇民將来と巨丹(こたん)將来の2人在って、兄の蘇民將来は貧窮で、弟の巨丹將来は富饒で、家も倉も百ばかりあった。ここに武塔の神は宿を借りようとしたが、巨丹は貸さず、蘇民に宿を求めた。蘇民は粟の柄を坐とし、粟の飯などでもてなした。
 それから年を経て武塔の神は八柱の子をひきい還って来て申されるには、「我れ、将来の為に報いん、汝の子孫その家にありや」と。蘇民將来答えて「われに女子とこの婦がいる」と。すると武塔の神が申されるには「茅の輪を腰の上に着けよ」と。その夜蘇民と女子2人とを置いて、皆悉に許呂志保呂保志てき(読解困難)、それから武塔の神が申されるには「吾、じつは速須佐能雄(すさのを)の神なり。後の世に疫気あらば、汝、蘇民將来の子孫といって茅の輪を腰につけよ。詔のまま著けさせれば即ち家なる人は疫気から免れるであろう」と申された、と伝えられています。
 黒石寺蘇民祭の起源をどこに求めるかは未だ定説がないですが、安永2年(1773年)の「黒石寺書上」につぎのとおり書上げられています。

  • 一、年々正月七日夜妙見宮之神事往古者妙見山におひて有之右儀式ニ相用候鬼面十二有之相用申候処高山故か飛行き尤恐敷儀数多有之候ニ付其後薬師堂におひて祭礼儀式仕来候何時与薬師堂江相移申候哉往古儀ニ而相知不申候右鬼面本式ニ相宛候得者何国共なく飛行き候由ニ而何時相失候哉当時ハ二ツ相残居今ニ至る迄七日之晩子供之頭へ爲冠附人相付よしたいまつ爲持参詣群衆の中を相廻り儀式相勤申候右子共鬼子と申唱来候
  • 一、年々右正月七日夜儀式ニ相用候薪ハ同六日ニ爲伐生割木を薬師堂の土間江三ケ所ニ焼切火ますます燃立候時参詣之諸人東西与投合或ハ火を以打合申候是往古与祭礼之儀式ニ御座候右焼木を柴焼木(さいとうぎ)と申唱候蘇民祭の参加者は、1週間の精進を励行します。鬼子となる7才の男子も同じであり、その戒律は厳しく守られています。

 裸参り及び柴燈木登りの時刻は、今は午後10時及び午後11時30分ですが、昔は裸参りが午後8時、柴燈木登りが午後10時でした。祭りの進行上休憩時間を短くすることになり、変更されたものです。それが昭和50年代のことです。
 当夜は寺の境内によし簀(す)張りの小屋が架設され、参詣の善男善女が仲間ごとに一隅を占め、炭火を囲み、暖をとり、仮眠するなどして祭儀の都度鐘の合図により参加します。これの本来の意義は、神迎えのおこもりの姿です。
 古来からの祭りの儀式を今に伝えている貴重な民俗文化財であり、全国各地からの多くの参詣者で境内が埋めつくされています。
 なお、黒石寺は天平元年(729年)行基菩薩の開基と伝えられ、「東光山薬師寺」と称しましたが、嘉祥2年(849年)慈覚大師錫(しゃく)を東奥に曳いてこの地に至り、遺址をついで伽藍を増し、山中に妙見堂あるが故に山号を妙見山とし、黒い石(蛇紋岩)が出るので寺号を黒石寺と改めたといわれています。

山内節(やまうちぶし)

  1. ハァ…
    揃うた揃うたよ 皆様揃うた
    秋の出穂より なおよく揃うた
    (ジョヤサ ジョヤサ)以下同じ
  2. ハァ…
    場所だ場所だよ 山内場所だ
    上は妙見 その下薬師
  3. ハァ…
    場所だ場所だよ 山内場所だ
    奥は大師の ありゃ座禅石
  4. ハァ…
    一度ござれや 山内薬師
    五穀豊穣の ありゃ守り神
  5. ハァ…
    柴燈木登や 別当登
    鬼子登で
    ありゃ夜が明ける

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