春子夫人の生涯
春子夫人は明治6年(1873)3月30日、旧薩摩藩士仁礼景範(にれ かげのり)、寿賀子の長女として仁礼家に生まれました。5人兄弟の一人娘で大事に育てられ、7歳の頃からピアノ、英語等たくさんの習い事をしていました。
明治21(1888)年、カナダ人宣教師が開校した東洋英和女学校に入学。その厳しい指導の下、英語等の語学力、国際性、キリスト教精神を身に付けました。
又、幼少の頃から皇室との係わりも深く、女官をしていた親戚筋の税所敦子のとりなしで明治天皇、皇后のご機嫌伺いに参内し、皇后や宮様から御下賜品を賜っています。

少女時代
明治25 (1892)年、山本権兵衛海軍大臣の媒酌により、20歳で斎藤實(当時35歳)と結婚。
夫が海軍次官、海軍大臣と昇進するにつれ、公的な場に出るようになりましたが、その語学力、国際性は斎藤實を助け、内助の功大なるものがありました。

結婚当時(20才)
大正8(1919)年からは朝鮮総督夫人として、昭和2(1927)年にはジュネーブの海軍軍縮会議首席全権委員夫人として、また、昭和7(1932)年からは内閣総理大臣夫人、昭和10(1935)年からは内大臣夫人として夫を支えました。

海軍大臣夫人時代
夫人の内助の功のいかほどであったかは、残されている三十数着の大礼服、中礼服、社交服そして袿袴(けいこ・十二単の略装)等からも窺うことができます。
昭和11(1936)年2月26日、斎藤實は一部青年将校らの襲撃を受けて(2・26事件)凶弾に倒れましたが、その時「撃つなら私を撃ちなさい。」と兵隊の前に立ちはだかって斎藤實をかばったという話は有名です。
その後、第二次世界大戦の折の昭和20(1945)年3月、夫の故郷「水沢」の邸宅に疎開されました。大戦後もこの地へ留まり、最初の水沢市名誉市民となった春子夫人は、昭和46(1971)年、99歳で亡くなられるまで邸宅で静かに暮らしました。

袿袴姿(50才)
© 2002 斎藤實記念館
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更新日:2023年09月29日