二・二六事件(事件の概要)

更新日:2023年12月07日

ページID: 1973

 昭和11(1936)年2月26日未明、国家改造思想に影響をうけた陸軍皇道派青年将校20名は、晩冬にしては珍しい大雪の中、陸軍の兵約1,500名を率いて重臣を襲撃し、首相官邸・陸軍省・参謀本部・警視庁・国会など永田町一帯を占拠しました。 斎藤實内大臣・高橋是清大蔵大臣・渡辺錠太郎教育総監は、この襲撃にあって殺害され、鈴木貫太郎侍従長は瀕死の重傷を負い、岡田啓介首相・牧野伸顕前内大臣は危うく難を逃れました。 青年将校達は陸軍大臣に面会を求め決起趣意を伝えるとともに、陸軍首脳に「国家改造」・「昭和維新」の断行を迫りました。 陸軍内では具体的な収拾策がまとめられなかったのですが、天皇は当初より武力鎮圧を命じ、海軍も決起軍に対決姿勢をとりました。 28日午後には決起軍を「反乱軍」と規定し、様々な方法で投降を勧告し、「奉勅命令」をたてに帰順を迫りました。青年将校達は1名が自決、残り全員が下士官・兵を原隊に復帰させたあと、帰順しました。 事件の首謀者は戒厳状態が続く中で弁護人なしの特設軍法会議の裁判によって死刑判決を受け、処刑されました。

2階建ての日本家屋でたくさんの窓がある斎藤實四谷私邸の白黒写真

斎藤實四谷私邸

 斎藤はこのとき内大臣の任にあり、天皇の側近として天皇補佐・体制擁護の中核でした。また、斎藤は親英米・軍縮派の象徴的存在であったため、襲撃目標とされたのでした。 午前5時、坂井中尉率いる210名が斎藤實私邸を襲撃しました。邸外警戒隊を残し、突入隊が邸内に侵入し、寝室の夫妻を襲いました。 斎藤は全身に40数発の銃弾を受けて即死、斎藤をかばおうと必死に抵抗した夫人も銃で撃たれて重傷を負いました。 軍国化のブレーキ役を担っていた重臣を失った我が国は軍部の政治的発言をさらに強めていきました。

上下、横に亀裂がはいっている鏡の写真

弾痕のある鏡

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