【寄稿】斎藤實内閣総理大臣秘書官 新居善太郎

更新日:2023年09月29日

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『偉大なる先覚者、その人格と卓見を現代に』斎藤實内閣総理大臣秘書官 新居善太郎

(注意)この記録は昭和50年10月、斎藤實記念館の展示館開館にあたり、新居氏がその記念講演を行った時のものです。『斎藤實記念館のあゆみ』(発行:昭和59年1月10日)に掲載

 昭和七年五月十五日はどういう日ですかと聞いたら、此処においでの方は別として、日本中でこの日をよく知っている人は、もう少ないんじゃないかと思うのであります。しかし、私にとっては忘れることの出来ない日であります。天気の良い日曜日で、制服の軍人が数名総理大臣官邸に闖入し、「話せばわかる」という犬養総理大臣を、「問答無用撃てっ」というて射殺した日であります。五・一五事件の日であります。その別動隊は、牧野内大臣官邸・警視庁にも手榴弾を投げ、又政友会本部・日本銀行・三菱銀行及び東京周辺の変電所等を襲撃しております。
 突如としてこの恐怖を聞いた国民はみな、日本はどうなるかと異常なショックを受け、心から憂慮したのであります。当時我が国は、昭和の初めから深刻な不景気が続きまして農村は極度に疲弊し、都市には失業者が溢れ、国民は貧困に喘ぎ、国も地方自治体も深刻な財政難に苦しんでおりました。その上、治安は乱れ、井上準之助・団琢麿等の政財界の巨頭が相次ぎ暗殺される等、人心は言い知れない不安に襲われたのであります。又中国大陸では日本排斥が激化し、済南事変・上海事変が起こり、遂に満州事変が勃発したのであります。対外関係も亦極めて悪化しております。それに軍部内閣を打ち立てようとする、いわゆる三月事変・十月事変等の革命陰謀が相次いで発覚いたしました。それらが要因となって五・一五事件となったのでありますから、我が国は本当に内憂外患、非常時局といわれる重大な危機に直面しておったのであります。
 この難局を担う者は誰か。我が国、内外の目はこの一点に集中されておったのであります。それで後継内閣を誰にするかということを陛下から御下問を受けた西園寺公は、興津で数日熟慮を重ね、上京の車中に秦憲兵司令官が乗り込んできて、五・一五事件の経緯を話すということもありました。上京してから三日間にわたり、鈴木侍従長・高橋総理大臣代理・倉富枢密院議長・牧野内大臣・山本權兵衛の代理人・若槻礼次郎・近衛文麿・清浦奎吾・上原元帥・荒木陸相・大角海相・東郷元帥等に引き続き会っておられました。
 又その間、鈴木侍従長が西園寺公に伝えた陛下の御希望というものがあります。それは、
 第一は思想や人格の立派なもの。
 第二は現在の政治の弊害を改善し、陸海軍の軍規を振粛するは一に首相の人格如何による。
 第三は協力内閣でも単独内閣でも、あえて問うところではない。
 第四はファッショに近いものは絶対にいけない。
 第五は憲法は擁護しなければならない。そうでなければ明治天皇に相すまない。
 第六は外交は国際平和を基礎とし、国際関係の円滑に努めること。
 第七は事務官と政務官との区別を明らかにし、これを実行すること。
 であります。
 この様なまことに厳しい選考条件に照らし、又我が国文武の最高の人々の意見を聴いて、西園寺公が熟慮に熟慮を重ねた結果、選んだ唯一最高の適任者であるというのは斎藤實子爵であります。しかし子爵の側近には、例えば内閣書記官長になった柴田善三郎さんなどは大命を辞退しなさいとおすすめしています。それは子爵には平素の用意がない。手兵手勢を持っていないから、結局はいじめぬかれて、難局を切りぬけることは容易でない。それに今総理大臣になっても、何の加えることがありますか、という風なことでありますし、又かつて副官をしておった加藤寛治海軍大将もまた辞退を入間野さんを通してお伝えしております。
 このような状勢の中で決断をなさった斎藤さんの心の奥底にあったものは何でしょうかと私が考えますと、この未曽有の国難であればこそ一身を顧みるいとまもなく大命を奉じまして、狂瀾を既倒に巡らして聖慮を安んじ奉るということ、それを日清戦争の時に広島の大本営で侍従武官として親しく明治天皇にお仕えしたこともうけたまわっております。それですから明治天皇以来の斎藤さんの忠誠心の深いあらわれではないかと拝察するのであります。
 斎藤内閣は五月二十六日に組閣を完了しまして親任式が行われましたが、当時私は内務事務官として土木局に勤務しておりました。斎藤首相や高橋蔵相等の偉い方が老躯をおしてこの難局に当たると聞き、又内務省においては大先輩の潮さんが次官を務めると、我々はもう属官にかえってひとつ御奉公しなきやならんじゃないかという風なことを話し合っている時に湯沢土木局長から呼ばれました。…後で内務大臣になった方…「君、五・一五事件のピストルが君に及んだ」といわれましたので「何のことですか」と聞きかえしたら、「総理大臣秘書官になれ」ということですから「柄ではありませんよ」と言いますと「柄でなくていいじゃないか総理大臣が来いというんだから内務大臣が行けというんだからいいじゃないか」「いや、それを御承知ならそれじゃお伺いしましょう」ということで、内閣総理大臣秘書官ということに内定したのであります。それで翌日からかと思っていると「すぐ来い」ということですから「総理大臣にお目にかかるのですからモーニングに着替えて行かなくちゃならんでしょう」と言いますと「かまわん、急ぐからすぐ来い」ということで総理大臣官邸に行って、初めて斎藤総理大臣にお目にかかった次第です。非常に御丁寧なお言葉を頂きました。それで内務事務官兼内閣総理大臣秘書官に任命されたのであります。後で斎藤総理が文部大臣を兼ねた時には、同時に文部大臣秘書官も兼ねる様になったのであります。が、それでそれが六月二日であります。
 その前日には、すでに臨時議会の開院式が行なわれ、翌三日には総理大臣及び各大臣の施政演説があるという誠にあわただしい時でありました。先輩の入間野秘書官にも初めてお目にかかり、同じく大蔵省出身の伊達秘書官と三人で前任者の引継ぎなどありませんので、どういうことをしろということもない非常に不慣れな仕事についたわけであります。そこで私なりに考えましたのは、あの物騒な時に戒厳令もしかれない時ですから、第一に総理大臣の身体を護ること、第二には色々な陳情が来ますので総理大臣の時間を無駄にさせないこと、第三には高橋蔵相・山本内相は総理より年長者なので、この人達の健康に配慮するということを考えました。それで総理大臣の護衛の人選は、従来内閣の方で希望を申しておったのを、私は責任ある警視総監に一任し、しっかりした人を派遣していただくことを申し入れ、又よい人を寄こしていただき、二・二六事件で総理官邸で、見事殉職されました。又、自動車のガラスを防弾ガラスに替えるとか、或は車のナンバーを複雑なものにするとか、更には総理大臣室と閣議室のドアには鉄板を入れさせ、又それらの部屋と秘書官室、書記官長室には非常ベルをつけました。これで一応、官邸の防備体制は整ったわけです。しかし、いぎ暴徒が侵入して来た時、素手では困る、といって、相手を殺すわけにはいかん、「十手」を考えましてこれを三人の秘書官をはじめ、各書記官にも用意してもらいました。それからもうひとつ考えたのは、万一の時、とにかく救援の来るまで総理を安全に隠す場所を決めておこうと、柳田護衛長と二人だけで、ひそかに隠れ場所を探しておきました。
 官邸には、いろんな人が来ます。ぜひ総理に顔を出してもらいたいと代議士が来たり、陳情や金もらいに来る手合いも少なくない、こうした来客を、私が一手に引き受けました。
 また先程言いました閣議の後は、総理官邸の食堂で各大臣が昼食を共にするのですが、高齢の高橋蔵相や山本内相は、各大臣官邸にお帰りになって「擂り餌」の食事をとられておりました。高橋蔵相は七十九歳で、山本内相は七十七歳でありました。高橋蔵相は臨時議会はきらって……当時の議事堂は木造作りで、冷房がなく扇風機でしたが……高橋蔵相は頭髪がうすいため、扇風機が寒く感じるので、それを取り除いて予算委員会を開きました。予算委員会では蔵相に対して質問はありませんから、蔵相に「お帰りなって休んで下さい」と言いましたら、蔵相は「自分のような者でも、ここにおれば総理が気が強いだろうから」と話されて動こうとはしない。これは全閣僚が一心同体となっているうるわしい姿であることを覚えています。又そういう高橋蔵相ですから、東北六県の知事達が年中陳情に来ていました。内務大臣と大蔵大臣に会いたいんだが、なかなか会えないのだから、閣議の後で、ここで一緒に会わしてくれということで内務大臣は自分の所管ですから来ました。と高橋蔵相は、あの絨緞の二、三段下ったところで私が言いましたら、澄んだ目でムッとした様な顔でありました。俺はこの老体でやっているというつもりでしょう。ところが東北地方は非常に困って、「知事達がみんな揃って、お二人にこれこれのことを聞いて頂きたいということなんです」といいますと、すっかり態度をあらため「よろしい」といって会われました。これこそ真の県民を思う心情というようなものを教えられました。又或時、予算委員会で高橋蔵相が前に言ったことと違っている、嘘を言っているという風なことを言われましたら、「老躯を引っ提げた私は嘘を言っていない。速記録を調べろ。私はここを修養の道場と心得ている」これ程いう大臣があるでしょうか。又、山本内相は、ある時に、農林省の予算として「自力更生」ということをかかげた農林土木事業があったのです。それに対して、多分、田子議員さんだったと思いますが「ああいうことは内務省のやることじゃないか」と。社会局長官をやっているものですから、山本内相は勘違いして、予算の取り方が少ないと言われたと思ったのです。それで本当になんと民政党の工藤鉄男(青森県選出)が、一生懸命に援助するんです。政友会は、これを攻撃する方で、そういう時に諄々と山本内相が国家の財政困難な時に、これをしっかりやらなくてはならないというので、政友会の方が政友会員に向かって「静かに聞け、内相が国家財政の窮乏に心血を吐露するのだから」と言うとピッタリ静まる。そこで山本内相が財政担当者ではないが、国家財政の窮乏を訴えることは実に麗しい国会の姿であると思いました。
 その後、馬場恒吾という人が、斎藤内閣の存続は物足りない感じでみていたが、斎藤内閣が瓦解して岡田内閣になってみると斎藤内閣の偉さが解ったと言うておりました。これは斎藤さんが偉いのと、斎藤・高橋・山本のトリオは人物のスケールが大きく、しかも互いに緊密に以心伝心になっておることを物語るものではないかと思います。更に、この三人がガッチリ協力したその中心人物は、斎藤さんであることを痛感しているのです。それで西園寺公が斎藤内閣における斎藤さんの色々な困難なことに対処する話を聞いて「斎藤総理は一頭地を抜いていて、高橋や山本よりも役者が一枚上ではないか」と言って、高く評価していたそうであります。結局、斎藤さんが組閣早々、前内閣の時に招集された臨時議会にのぞんだのであります。
 それで六月一日には、前内閣の臨時議会の開院式を行ない、その午後、各省の政務次官をきめると、その翌三日には施政演説を行なうという非常な困難な内容を、スピーディーにやったわけです。その時の議会で話された要件は、第一は治安の保持。農村振興及び人心の安定をはかること、第二は軍律の厳守。陸海軍一致して勅諭の骨子に徹して陛下の信倚に答えること、第三は政界の浄化です。政党そのものをあくまで尊重するものであるが、政争の余波は大きな弊害を生ずる。政界革新によって政党に対する今日の非難を一転し、明日の信頼にかえるとしなければならない、ということを言っております。それから、経済界の不安を匡救すべく、財政経済の緊急の処理は従来の政府の諸方策によるんだという。これは前内閣では、高橋蔵相がやっておったからだと思います。それから、今言った軍律の厳守と政界の浄化ということは、陛下も大変、御心配になられていたほどの重大な根本問題でありますが、又最も困難な問題であります。ことに軍律に関する一項につきましては、施政方針演説の中に入れることについて、陸軍側から干渉的発言があったのでありますが、それにも拘らず総理大臣は押し切ってこれを議会において公約したのであります。その卓見、その信念は死を恐れない真の勇気、正に陛下が西園寺公に御希望なされた通りの人格の現われと思います。そして、その施政方針演説の終わりには、このようにして此の重大な時局匡救の大任をつくし、聖慮を安んじ奉り、国民の期待にそわんことを期しておると、非常な決意をもっておっしゃっておられました。
 この時の議会で、一つは時局匡救のために再び臨時議会を招集すること、他は満州国を即時承認するというこの二つの決議案を出されたことであります。満州国の承認につきましては、先ず基礎作業として怠慢な行政矯正ということで、それを在満帝国機関が色々ありますが、これを一つにするという閣議決定をいたしました。これがつまり関東軍司令官と関東州長官及び満州派遣特命全権大使、これを一人で兼ねることを決め、いわゆる三身一体と当時称せられたものであります。それが八月には武藤信義大将をこれにあて親任式をする。それから、閣議とか枢密院の本会議を開くということを経て九月十五日は、満州国との間に日満議定書を交換して、満州国を承認しておるのであります。議会で言われたことは、どんどん着実に実行しておられたわけです。
 それから今一つは、時局匡救事業であります。六月十五日、閉院式が終わると直ぐ、その午後、関係各省の次官を招集して、五相会議を開くことにし、それからその晩、明治神宮に親任の報告をし帰ると直ぐ五相会議を開き、七回も開いて、八月五日には直ぐ次の臨時議会に提出する救済策の大綱を決定いたしました。その間、七月には地方長官会議を開いております。それで愈々真夏の八月二十三日に、次の臨時議会を開会してこの案を提出したのであります。故に、これは時局匡救議会といわれている所以であります。
 その内容は、この不況困憊の難局に直面して、農山漁村及び中小商工業の窮状に照らして救済策を講ずることは、この議会の使命であると冒頭に言いまして、それでこの行き詰まっている金融に融資する。その為には、産業資金を供給する低利資金を出す。銀行産業組合等に対して、損失があった場合にこれを保障する、という風なことを言っておりますし、又農村に対しては、あの時は、農村は非常に借金で困っておりますから、その再整理をするということ、更に進んで積極的には適切な事業を興して生業を与え、不況に沈滞している窮状を打開するために、道路その他の土木工事を、及び農林省関係の農林土木事業、斯様なものを興して匡救している。農漁村民に直接就労の機会を与えて、遍く賃金収入を得させると、それで全国的の一大土木事業を興して、これが時局匡救の内容になります。
 併し、斎藤総理大臣の非常に偉いところは、又最も苦心したところは、単に陳情や要望に応じて救済するだけでなく、その根本について非常にお考えになったことであります。それがつまり「自力更生」ということであります。それで斎藤総理大臣は、中央教化団体連合会の会長をやめないでいたので、その幹部を呼んで、その真情を吐露しております。この「自力更生」ということを、中国に行った人が、毛沢東から聞いてきたと吹聴している人がいるが、私は実になさけないと思うのであります。本日、ここにおいでの方には、「自力更生」ということは、よく御存じと思います。
 斎藤総理の御心配になったのは、自分が国政担当の大命を拝してから、まだ二十日もたたない短命内閣であろうと、多数の訪問客に接して色々な話を聞いていた。勿論その人々は、各種各方面の関係者で、一概には言われないが、中には地方町村自治の首脳者が相当な多数を占めている。そして、その首脳者のみとは言わないが、とにかくこれらの訪問者の話は、総じて現下国民生活の不安定を語り、これが救済は一刻の急を要するということを訴えられたのです。勿論、この説には総理大臣も、施策の必要を痛感しており、しかしこれが対策については、これらの人々と総理大臣の意見は必ずしも一致しない。ここが偉いところであります。一致しない点は明確に言うている。即ち、これらの人々の異口同音に述べるところは、国民生活の困難を救済するためには、この際、政府より相当思い切った補助、助成金を出すのでなければ、国民も、従って地方町村も立つ力はない。しかもこれ以外に、方法はないということである。
 もとより総理大臣は、大命を拝してその重責に当たる限り生命を捧げ、粉骨砕身政府としてなすべき最善の努力を尽くす決意ではあるけれども、そう言われるように、時局救済の道が単に政府の補助、助成金にありとし、国民自体には、立つ力なしとするが如き気持が、一般に浸透している時においては、その結果は、おして知るべきで、実に民力の退廃、国是の基礎が破壊されるということになるのだと実に寒心に堪えない。政府の負担は、直ちに国民の負担になる。何故に今少し、有識者の間にこの道理を深く考えられないのであろうかとご心配になられるのであります。
 それで総理大臣の意見としては、断じて政府の責任を回避しようとしたり、又怠慢をあえてして、これを弁護するのではないけれども、時局の困難を克服するその要件は、どう考えても、先ず国民各自が、自らの力を、又市町村の力を充分発揮し、相寄り相助け、共同の努力を持って、国家全体の難局を打開するにあると考えると、教化団体は、左様なことをやったらどうかと言うのです。
 今は地方財政が困難だといい、又国家財政が困難だといい、色々施策をやろうという風なことをしておりますが、その前提となる自治の本心、自分のことは自分でやるんだという風な心持ちに、国民一人一人がならなければだめだと、そこが斎藤さんが、根本を考えられて、又それをあえて言うておられる。丁度その時に、関西で、「自力更生」ということを看板にしてやっているところがありますと申し上げましたら、手をたたいて「それだ」と自分の考え通りのこの標語だということで、これを一つ基本として、教化団体連合会の緊急理事会を開いて、これをやるんだと決定し、その翌日には、閣議において、このことを各大臣の了解を求め、ここで「自力更正」という題目が確定し、これが、総理の時局対策の根底となり、又これが国民精神の指導の精神ともなったのであります。その翌六日には、総理は、国民にラジオを通じて、講話をしています。「重大なる時局に際して、国民に告ぐ」ということで、「自力更正」を放送の第一声として、全国民に向かって、総理が話された訳であります。それでその中で、時局匡救事業或は「自力更生」、政界の革新、地方長官の異動等も言うておられまして、最後に政府の時局救済の諸施策と、国民の自力更生の意気と相まって、経済界の不況を克服打開し、政界の陋弊を排除し、よってもって上、天皇の御稜威と下我々祖先の忠節と誠実とに築きあげた三千年の光輝ある歴史を更に一層その輝きを増そうということを、希望しておられたのであり、先輩諸兄の築いたものを、真に大事にするのだ、ということで、しめくくっておるのです。
 いつでも、国民の力というものが、総理の念頭にある訳であります。私に、議会が閉会すると直ぐ、地方の現況視察を命令されましたが、それでも今現地に行っても、救済工事は着工しておりませんから、と申し上げて、大阪の大演習後の十二月になって「これから視察に行きますが、何処に行ったらよいでしょう」と伺いますと、「一番、困難な地方に行って来い」と言うので、私は東北地方の山形・秋田・青森・岩手を見て廻ります、と言うて、そこで、私が平素何の気なしに総理が話していたことが頭にピンと来た。それは、文官は、色々見て来ても、自分の意見を言わないということです。これは今度は、自分の意見を言わなければならないことだと思って、雪にまみれて、見る所もあてがいぶちじゃなく、町村事業を主にして見ました。こんな大金を、町村は扱ったことがないし、土木事業もやったこともないんです。左様な所を廻って来た結論としては、総理に非常に役に立っております。その時の賃金は、男は六十銭、地方によって違いますが、女は四十五銭位でした。
 そういうことで、その生活内容は、どんなものだろうと言うと、秋田県の八郎潟のあたりでは、生活費のうち、副食費は年間三円六十銭ぐらいだろうという話でしたが、左様な所で、一日六十銭から四十五銭の賃金を得られることは、大変な潤いになるのであります。総理は、斯様な報告書が来ると、非常にお喜びになられ、同時に、地方・町村が、不慣れな高額な金を使い、不慣れの工事をやると、不正が起こる心配がありますよ、とお話申しましたら、内務大臣へ行って話して来い、と総理は気をくばられました。それで、内務大臣の所へ行って、そのことを話したのであります。そのようなことで、私は、総理がとことんまで押すという点が実に偉いものであると思うております。
 その後、又議会がすんだ後、西園寺公を訪問された帰りの車の中で総理が話されたことは、満州国の承認問題を、次の通常国会に提案しなければならない、非常にお忙しい一方で、「自力更正」という国民運動を、一層活発に展開し、これによって、非常時局を乗り切る原動力にしようとしておることでありました。それですから、新聞記者に「自力更生」のことを、次の如く話しております。「自力更生」の気運が押しつけでなく、国民の中から生まれなくては何もならん。自分も東京や大阪でも、自ら街頭に立って、国民の声を聞きたいと思うが、連盟総会も始まるので、その機会があるかどうか。しかし、内務・農林・商工・各関係大臣が出来るだけ地方を廻って、自力更生の気運を助長することに努力してもらうつもりであると、如何に熱心に、如何に有効な手を打たれたか、これで解ると思います。この並み並みならぬ「自力更生」は、米国・ルーズベルト大統領が、ニューディール政策を立案されたのは、斎藤さんより二年位あとであったと思います。
 これを比較して、現在、財政経済の専門家は、斎藤さんがやった時局匡救の方が立派で、非常に勝れているということをいいましたが、この勝れているというその根本には、斎藤さんが本当に問題の本質をお考えになって「自力更生」ということを考えられ、これを国民に徹底して国民の力を呼び起こし、それと共に、政府の施策をやるというようなことの現われであるという風に思っております。
 そこで又、斎藤さんは、政党政治の弊害を除去するということをいうと、これは当時の政党内閣が代わると、内務省出身の知事が異動するのであります。それによって、選挙干渉をするようになり、色々なことを政党本位に処理する様になる。これでは、なかなか弊害を改めることが出来ないのであります。政党内閣の弊害は、政党内閣が改めることは出来ません。当時、新聞でも、この困難な問題を組閣早々取り上げて実行したことは、さすがに挙国一致内閣であると言っておりました。
 あの当時は、実に世の中が陰惨で、物騒ないやなことばかりが多かったが、斎藤さんの総理大臣二年有余を通じて、最も輝かしい国家的行事は、皇太子殿下の御誕生であります。これまでは、内親王ばかりでしたので、皇太子殿下であって欲しいと、全国民が願望していた。その時、十二月二十三日に殿下御誕生とあって、斎藤さんは非常にお喜びなされ、直ちに参内して陛下にお喜びを言上なされ、又、皇太后陛下の大宮御所にご出向して、お喜びを言上なされ、同時に、この御慶事の謹話を国民に発表されました。そして、翌年二月十一日の紀元節には、恩赦を実行したのであります。これは、本当に斎藤さんが喜び、それからその喜びを恩赦という形で、陛下にお願いしたという。この実績は、非常に貴重なものであると、私は思います。ことに重要なことは、その翌年の二月二十二、二十三日に皇居で、皇太子殿下御誕生のお祝賀が催されたのであります。
 その御祝賀の時に、斎藤総理大臣に対して、天皇陛下から御沙汰書があったのであります。その御沙汰書の内容は、「皇太子殿下御誕生に際し、本邦児童及び母性に対する教化並びに養護に関する諸施設の資として、金七十五万円也を脚下賜候旨御沙汰あらせられ候」と、七十五万円が、現今の十億円位で、陛下のお手元金よりの御下賜金を下されたものであります。これが、我が国における子供と母に対する福祉事業の第一歩を踏み出されたのであり、正に福祉事業の原点であります。この当時は、未だ厚生省も保健所もなく、子供や母親には、何等保護の手をさし伸べられずにいた悲惨な時代に、陛下の斯様な御沙汰を賜わったので、関係の宮内、内務、文部、拓務の四大臣が相談して出来たのが、恩賜財団母子愛育会であります。それで、この会の総裁に久邇宮大妃殿下、会長に元総理大臣の清浦奎吾氏、理事長に貴族院議員の関屋貞三郎氏となる。
 これは斎藤総理大臣が、陛下のお志を拝受申し上げられて行なったことで、あの当時……五・一五事件の起きた世情不安な時代に……陛下が如何に国民を愛しておられ、又如何に国民の幸福を思われての、御下賜金のあらわれであることを、斎藤総理大臣は痛感され、関係各大臣を集めて、恩賜財団母子愛育会という団体を作ったことだと思いおこします。
 それなのに、斎藤内閣をスローモー内閣等と言うのは、とんでもない話でありまして、身体が大きくて悠揚迫らざる態度で、余計なことは喋らない、とそれだけで、スローモーなんて言うことは全く見当違いで、いつでも先を先をと見て、しかもポイントは正確に判断して実行しています。だから短期間に、議会を何回もやり、その決議したことは、どんどん実行して行きました。それには、思い当たることがあります。二・二六事件で亡くなられまして、毎晩お通夜に行きましたおりに、ある海軍将校の方が、「俺が軍務局長の時に、忙しいから人員を増加して下さい」と言ったら、「よろしい」と斎藤さんが言うので安心していたら、「それじゃ一日俺が行ってやろう」と言うことを言われましたのです。ああ斎藤さんに来られては困ると願い下げしました。又、他の将官も、「俺もそういう目に会った」と言って、如何に人事を大事に考えておられ、又如何に実情に詳しく、その実力があって、よく色々なことを熟知している。斎藤さんでなければ、左様なことは出来ないんです。
 今、行政改革とか、役人が多過ぎるとか言われている時に、斎藤さんのような方は、非常に親切で思いやりがあって、相手の立場をよくお考えになる方で、或る時、総理官邸へ来る手紙は、秘書官が整理して、お目にかけるものを厳選します。自宅に来る手紙は、私共にも仕様がないんですが、総理はすべてご覧になって、いつでもおいでになるときに、風呂敷に包んで来まして、我々秘書官に渡されます。或時に、分厚な手紙があって、総理が申されるには、「これは読むのに随分骨が折れたけれども、書いた人はもっと骨が折れたなあ、」と見も知らない人からの手紙でもよく読んでおられる。それから又これは、年取った方は覚えているかと思いますが、福井の大演習に行った時、宿に居っても、警戒が厳しいから外出しないでいたら、当時、日本中に有名な「コタケ」という大きな太った芸者が福井にいた。その芸者を、知事が車に乗せて伺いに来たんです。そうしたら、斎藤さんは、「大変不自由であろう、玄米食にしませんか」と、先ず相手の立場になって考えるという風なことで、これに似た話は随分あります。
 それから、決して物を無駄にしないということで、ある酷暑の時、総理の部屋に氷柱を立てた時-冷房の設備がない時-「それは無駄だから止せ」と言われたが、秘書官は、どうしても止めなかったら、入間野さんが「君、やっぱり総理は海軍大将だよ。作戦を考えられて、俺のリューマチに悪いから止せ」と、これじゃ仕方がないと言うて止めました。又、護衛はいつでも止めろと言うのです。これ程、物騒な世の中では、護衛は無駄だと言うのです。既に死を覚悟している身、無駄なことは一切しない。斯様な話は、いくらでもあります。又、人の使い方というものも、私は二・二六事件のあと、お通夜の席で、海軍の将官達の話に、斎藤さんは、決して小言を言わない人だった。それは、小言を言わなきやならんような人の使い方はしない、と言うことです。それですから、高橋蔵相や山本内相と言う大人物も、言葉は悪いんですが、斎藤さんには上手に使われたと、これは、斎藤総理の偉大さであると、私には思われます。それから人に迷惑をかけないという心掛けを絶えずもっておられました。それは、松岡全権が国際連盟に、我が国の代表として出発の時に、斎藤さんに、「総理は、お見送りしますか」と伺いましたら「しない」とのことでした。あの礼儀正しい人が変だぞーと思って、秘書官三人で話していたら、総理の自宅から入間野秘書官に、帰りがけに四谷に寄れと電話があり、俺の車で総理は、東京駅に松岡全権を見送りに行くと、それは大変だと思うて、私は警視庁に連絡して東京駅でお迎えし、入間野さんがお供をして駅に到着されました。駅は多数の見送り人で混雑している中を、巡査は人混みをかき分け、その後から総理は「そんな乱暴なことをしてはいかん」と注意され、人に迷惑をかけないお気持ちがあるということ、本当に斎藤総理の誠意、礼儀、相手の立場を考えるということは、私が嬉しく思う一つのことであります。
 三十三年六月十七日の「日本経済新聞」に、鳩山さんが「私の履歴書」というものを書きました。この鳩山さんは、政友会総裁鈴木喜三郎氏と一緒になって、あの春の選挙に三百有余名の絶対多数を取ったから犬養内閣が出来た。その犬養さんが不慮の死に会い、内閣が倒れ、次は当然、政党内閣として、政友会に大命が来ると思っておったら、斎藤挙国一致内閣となる。政友会が、斎藤内閣に対して積極的協力ではなく、なんと言いますか、まあ、いわば言葉は悪いけれど、ブレーキをかける存在でありました。その鳩山さんがですね、これは、又別に右翼とか、そういう風ではなく、なんとかして斎藤内閣を倒し、しかも政友会にはやらんという風なことがあったのです。それで今度は、各個撃破になって、先ず中島商工大臣をとうとう退任させてしまった。次は、鳩山さんに移ってきた。その時の議会で、鳩山さんに質問が集まったら、明鏡止水の心境で善処するんだから、心配がないということを言ったんです。そのことを、「私の履歴書」で、そういう意味を書いたので、新聞社は、鳩山は辞職する気だとさわがれ、それが翌日の新聞には「私が辞意をもらした様に出してしまったので、私は「エイ」と気合いをかけるつもりで辞表を出してしまった。斎藤さんが、わぎわぎ音羽の家の玄関まで行って「君が辞表を出したのは残念だ、思い止まってくれと言うことも出来ないが、私は、自分の感謝の気持ちを表わすためにやって来たのだ」と、玄関口で言われた。それで鳩山さんは、総理の権勢が、現在とは比較にならない程に強かったのに、私は斎藤さんを見直す気持ちだった、と言っておられました。これで私は、鳩山さんが、斎藤総理の気持ちを完全に了解し合ったとみて、非常に嬉しく思ったのであります。例えは、悪いかもしれないが、あの三国史時代に「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という言葉がありますが、左様な故事を私は思いおこしたのであります。
 それで、斎藤内閣の後半期の時でありますが、我々秘書官三人が初めて、たった一つの記念として御揮毫をお願い申したら、私に下さったのは、「富貴不能淫、貧財不能移、威武不能屈、此之謂大丈夫」という孟子の語でした。恐らくこれは、斎藤さんの終生の信条ではないかと拝察されるのであります。それで私は、後に鹿児島県の知事をした時に手に入れた西郷南州先生の遺訓というものがあるのですが、その中に「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困る人だ、その始末に困る人ならでは、艱難を共にし、国家の大業は為し得ぬものなり。されど、このような人は、凡俗の目には見得られぬぞ」という。それが孟子の「居天下之広居、立天下之正位、行天下之大道、得志与民由之、不得志独行其道。」
 私は、斎藤子爵は正に、この道に立った人で、西郷南州先生と共に、国家の大業をなした人物であると思うのであります。西郷先生は、明治維新の大業をなし、斎藤子爵は、昭和における未曽有の国難克服という大業を成した方だと思います。又、斎藤総理大臣は、挂冠されるに当たり、我々秘書官三人の外に、恐らく法制局長官、書記官長にも上げたのでしょう。記念に銀製の花瓶を下さいました。その花瓶には、「同舟奇縁」という直筆で彫ってある。あの狂瀾怒涛の中を、約三年間というもの偉大なる大提督から、同舟ということを添えた記念品まで頂いたという感激は、今も忘れることの出来ないのであります。只、遺憾なことは、戦時中、金属供出で、私が、京都に居った時は、知事として率先して供出しなければと思い、写真をとって供出しました。実に、惜しいと思いましたが、翻って考えますと、この供出こそ、斎藤さんは喜んでくれるのではないかと思うのであります。常に、斎藤さんには無言のうちに、私の人生航路の指針を与えて下さったお方と思って、今も本当に感謝しておるのであります。

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