【寄稿】斎藤實御孫 岡百子.

更新日:2023年09月29日

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『祖父のことども』 斎藤實御孫 岡百子

(注意)この寄稿は、斎藤實記念館(展示館)落成記念に際し出版した『斎藤實夫人を偲ぶ』(発行:昭和50年10月27日)にお寄せいただいたもので、掲載の内容は当時のものです。

 祖父が凶弾に斃れたのは、私がまだ小学校の子供の時でしたが、もっとも記憶に残っているのは、二階の居間で長く広げた紙にむかい、太い筆を持って揮毫をしていた姿でございます。そして私が行くと、白髪の温顔をほころばせ「よく来たね」と先ず一度、高く抱き上げるのが常であり、そばから祖母と母が、重い私を抱いた後、筆を持つ手がふるえることを心配しておりました。私が生れたのは、祖父がジュネーブ軍縮会議に全権として出席しての帰途で、斎藤の家に百年近く生れなかった女の子の誕生を喜び、「モモコトメイメイス ヒャクノジ」という電報が、シンガポールから打電されてきたときいております。
 祖母は、祖父の亡きあと、三十数年の余生の大部分を、水沢で多くの方々のご好意に包まれて過ごしましたが、あの二十六日の朝、負傷した両手を肩から吊って、祖父の遺骸の前に泣き伏した姿は、悲しい思い出として私の脳裡を去りません。
 当時、父は一部青年将校の動きに関するかなりの情報を得ており、二十五日の夜には、自分が車を運転して、葉山の別荘に祖父母を連れて行こうと思い乍ら、アメリカ大使のレセプションからの帰りが余りに遅かったため、待ちくたびれて明日になってからと思い、実行しなかったことを、後年、度々口にして悔んでおりました。健康に恵まれた祖父が、天寿を全うしていたならば、その念願の通り晩年を郷里にかえり、青少年の育成につくすことが出来たかもしれません。
 今日、多くの方々のひとかたならぬ御厚意に依て、その生涯を記念する記念館がつくられ、生前の志が達せられたことは、祖父にとってこの上ない喜びであろうと存じます。又私共にとりましても、祖父の手許にあった品々が、後の方々の御役にたつように、このような形で残されますことを厚く感謝致します。

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