【寄稿】斎藤家御親戚 入間野宏.
『回想-斎藤さんと父のことども』 斎藤家御親戚 入間野宏
(注意)この寄稿は、斎藤實記念館創立10周年記念に際し発刊した『斎藤實記念館のあゆみ』(発行:昭和59年1月10日)にお寄せいただいたもので、掲載の内容は当時のものです。
善悪の判断
私の父入間野武雄は、水沢で小学校の課程を終えると、上京して『東京市赤坂区霊南坂町十七番地斎藤實方単身寄留』の上、『斎藤實』を『後見人』として、府立一中に通いはじめる。尤も、菊次刀自(補足:斎藤さんの母堂)の側においたのでは、東北弁の匡正は不可能という斎藤さんの配慮で、当時は他家へ頭けられていたようである。父に訛りがないのは、そのお蔭であったと思う。
一中入学後間もなく、斎藤さんは父を呼んで「お前も一人で東京に来た以上、事の善悪の判断はつくだろう。自分で考えて、いい事はやり、悪い事はやってはいかん。ただ、どうしても思案に余った時は私に相談せよ。人にいわれてから気がつくようでは遅いのだ」と諭された由。父は「この時、斎藤さんは勲章をつけていたように思うが、明治三十七年以来身近にあって、これ以外に意見されたり、指図を受けたことはなかった」と語っていた。
明治三十七年四月二十五日付の父が両親に宛た手紙の一節に『午后霊南板に参り伯父上様(補足:斎藤さんのこと)より種々将来に付お話をいただき云々』とあるのが、多分この時のことであろう。
豆腐汁
父は、味噌汁、漬物、酢の物が大嫌いで、生涯口にしなかったが、斎藤さんはこのことを大へん心配されて、朝食を味噌汁と漬物だけにして様子をみられたことがあったようである。己むを得ず「鰹節を削って醤油をかけ、飯にまぶして食べているうちに有耶無耶となった」と父は笑っていたが、後年秘書官として仕えた時には、旅先の朝食に、斎藤さんの好物である豆腐の味噌汁をつけさせることを忘れなかったという。
豆腐汁のことはさておき、鯛(補足:春子夫人の好物)、雉、鴨、七面鳥、芹、各種茸類、このわた、からすみ、鮭の子等は、斎藤家の献立に始終出てくる。中学以来父が親しんだこれ等の食品、また食後に必ず果物をとる習慣は、そのまゝ私共の食卓に伝えられている。
二組の両親
明治四十二年、父は斎藤家を出て一高の寮に入るが、毎週頻繁に官舎へ出向いて食事を饗されている。
この年の暮から翌正月にかけて、父は箱根芦の湯温泉に籠る。余談であるが、この地の「きのくにや旅館」は、斎藤さんの紹介によるもので、爾来双方代替りをした今日迄交誼が絶えない。
明治四十三年一月一日(土曜)の日記に『湯に入って身を清め東の空に向ひ先ず陛下の万歳をとなへ父母及び斎藤家の恩を謝し…』とあり、父の心の中には、常に本当の親と斎藤さんという二組の両親があったわけで、終世この気持に変りがなかった。
御所の前では車中からでも拝礼せよ、皇族のお写真は穢すな、賜物は拝してから口にする、長上の邸の玄関、門前迄車を乗りつけてはいけない等、何れも当時からの斎藤さんの躾けである。
続いて一月九日(日曜)の項には『昨日叔母さん(補足:春子夫人のこと)が餅を食はせるといふから来たんだのが晩にだと云はれて何もせず無意味に遊んでた夜山梨夫婦及び景雄さん達が来、餅も餅!水沢風の雑煮さ!待ってた甲斐があって中々美味しい』とある。『こま餅(補足:ごま餅か)鳥、鮭の子、蒲鉾、玉子焼、芹、午蒡、人参、大根の入った雑煮。鳩、芹の吸物、刺身、鮭、きんとんの口取、鮭の子、数の子、塩豚、なまこ及び大根の湯煮。食後、林檎及密柑』というから、一人東京で暮す父が、郷里の味に欣喜雀躍し、斎藤夫妻の愛情に感謝感激した気持がよく現れている。
クリイモケー
菊次刀自は、私の祖父専次郎の姉であるが、父の言によると「この姉弟はおそろしく気が強く」て、上京後「ずい分可愛がられたが、始終怒られました」という。「クリイモケー」を食わせるというから、栗と芋の菓子かと思ったら、生れてはじめての美味(補足:シュークリームを当時は一般にクリームケーキといったものか)とか、一しょに入浴させられて、頭の天頂から足の先迄ゴシゴシこすられたといった思い出話がよく出た。
何れにせよ、二十才前後の父には、菊次刀自のお相手が肩の凝ることであったらしく、明治四十三年一月十一日(火曜)の日記に、『今朝も寝坊した(補足:斎藤家の朝は早い)…官舎から電話で晩に来いと云ってきた実は新富座に行く筈だったから断ろうと思ったが又伯母さんの感情を害するといかんから渋々応じておいた…一時過ぎると雪がドンドン降って来た…夕方官舎から来ずともいいと云って来た』と認めている。折角自由な寮生活を楽しんでいる処へ、窮屈な呼び出しを受けて困惑の様子が目に見えるようである。
それでも、多少気がとがめたのか翌十二日『夕方官舎に行き飯を食はされて八時過帰る!実は昨日行かなかったんで申訳的に行ったのさ』。こんな憎れ口を書き残しているのも面白い。
晩餐会
斎藤家の晩餐会の古いメニューが手許にある。明治三十九年三月二十日の斎藤家紋章入りの分は、養嗣子斉氏の披露宴のものらしく、海軍のマーク入りの他の数葉は、叙勲か授爵の祝宴のものであろうか。その外『叔父さん』、或は『伯母さん』の『誕生日の晩餐会』の記録も残っている。
献立は、例えば
『一潰鶏クリーム濁羹汁
一鱒洋酒煮
一鶏笹身焙焼 飯米
一牛繊肉洋蒸 豌豆
一家鴨蒸焼 生菜
一クリーム冷果
一雑菓果』
といったもので、魚が鯛、鳥が七面鳥や鴨のこともあるが、大同小異で内容は豊富である。父の嗜好、テーブルマナーは、この頃培われたものであろう。
おじ様のお蔭 - 晩年の春子夫人
春子夫人は、小柄な人なのに、いつも堂々としていて、むしろ大きくみえたものである。
それはとも角、四ッ谷の家で紅茶が出ると、角砂糖にレモンとミルクを乗せた銀盆を女中さんがスッと出す。適宜カップに入れる際、手許をじっと見つめておられると、日頃が日頃の腕白にとっては、大変な緊張の一瞬であった。一渉りすると、斎藤さんは「おあがり」と、春子夫人は「めしやがれな」と仰せになる。お二方のおっしやり方は、いつも同じで、ただ懐しい。
禁句があった。「エエ」という返事と、「何々デス」の「デス」という言葉、まして「エエ、ソウデス」など以ての外であった。近頃の子供の「ウン、ソウダヨ」は、春子夫人に関する限り適用しない筈である。
「皆様に大事にして頂いて、これもおじ様のお蔭です」と、水沢での心静かな、感謝の日々の中で、折にふれて昔語りをされる時は、いきいきとして、本当に楽しそうに見受けられた。
祖父が斎藤さんの前々任の内大臣、斎藤内府当時の侍従武官(海軍)を叔父にもつ私の家内を相手に、当人は幼くて朧気にしか知らないことを、春子夫人は昨日のことのように偲ばれ、その記憶力の若々しさは驚くばかりであった。
お暇をして門迄の小路を辿る間、ベランダからお見送り項いた姿が目に残る。
むすび
所謂「満洲国」のことを、斎藤総理は「外国」と断定し、荒木陸相は「我が領土のようなもの」と解していた。世界情勢の把握と、日本の立場に対する認識の仕方が、両者根本的に異るのがよく分る。
二・二六事件後、真向から陸軍と渡り合える人物を失った日本の歩んだ道を今更回顧するつもりはないが、湯浅倉平氏の昭和十五年九月十五日付書簡の一節を引用して「むすび」としたい。この時、湯浅氏は肺気腫が重く、内大臣を辞し葉山で病臥中であった。
『世局多事聾さじきに在りて正確なる事は一切不判りし故杞憂に不過事と存じれとも未曽有の國難に遭遇せずやと心配罷在るも小生如き衰弱者は余生何程も無し爆死す迚も憾むに足らす候へとも國運隆昌を希ふの情は死しても残り申し児戯に類する防空演習の繰返さるゝを見ても余りに無人の感なきを得ず逆に馬に騎して己は欲せさるのに曳きずられ行く政治家の外に救國の偉傑は無之者か悶々の情禁じ難く…』
老忠臣の絶叫が聞えるようであり、何か私には、地下の斎藤さんの声でもあるような気がしてならない。
昭和三十三年、父の没後、私は毎年多摩墓地の斎藤さんと、向いの高橋さんのお墓参りをすることにしている。
あれから間もなく半世紀、昨日のことのようでもあり、遠い昔のようでもある。時の流れをしみじみ感ずるこの頃-年の故かもしれない。
参考資料
斎藤實伝、平田東助伝、石渡荘太郎伝、原田日記(西園寺公の秘書官)、木戸日記(内大臣)、入間野武雄日記、その他手紙等の資料
© 2002 斎藤實記念館
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更新日:2023年09月29日