斎藤實略歴
海軍大臣、海軍大将、朝鮮総督、内閣総理大臣、内大臣
子爵、大勲位菊花大綬章・従一位
安政5年(誕生と両親)
1858(安政5)年10月27日
誕生、幼名富五郎

幼年時代をすごした生家
安政5(1858)年10月27日に陸中国胆沢郡塩釜村(現奥州市水沢区)に誕生。父は留守家家臣斎藤耕平、維新後は帰農し寺子屋師匠、その後岩手県警察官。母は岩ヶ崎阿部家二女、耕平に嫁いで名は菊治。心の優しい働き者だった。
明治3年(少年時代)
1870(明治3)年
胆沢県庁給仕
立生館で漢学を勉強
(13歳)
幼名は富五郎。幼い頃はタコ揚げ、雑魚取り、草相撲などして遊んだ。祖父、父とも寺子屋の師匠をしていたので富五郎は漢学を厳しく教えられ、10歳で四書五経の素読を完了していた。12歳のとき県庁役人の書生を経て県庁の給仕になった。13歳のとき立生館で漢学を勉強した。
明治5年~明治12年(海軍兵学寮時代)
- 1872(明治5)年
上京(15歳) - 1873(明治6)年
海軍兵学寮入学(16歳) - 1875(明治8)年
このころ實と改名(18歳) - 1879(明治12)年
海軍兵学校卒業(22歳)
向学心に燃えた富五郎は明治5年(15歳)に上京し、働きながら勉強。翌年海軍兵学寮を受験・合格、海軍の人となる。富五郎は英国人教師の英語による授業はたいへん苦労したが、ひたむきな努力で総合3位の成績で卒業。兵学寮では英国式マナーも学んだ。(明治8年、實と改名)

上京当時の斎藤實(中央)
明治17年(米国留学時代)
1884(明治17)年
アメリカ留学4年間
ヨーロッパ諸国視察(27歳)
明治17年から4年間公使館付武官兼務で留学。わが国から訪米する政・官・財界要人の案内や通訳など、その仕事ぶりは米紙に紹介されたほど。西郷海軍大臣に請われて欧州各国視察に同行し、国際感覚も身につけた。
明治25年(春子夫人)
1892(明治25)年
仁礼春子と結婚(35歳)
- 父・仁礼景範(海軍重鎮・海軍大臣)、母・寿賀子の長女、(明治6年3月30日~昭和46年9月14日)
- 少女時代宮様の遊び相手、英会話が自由。明治25年斎藤實と結婚。
- 政府高官夫人として内外高官に接することが多く、傍らにあって實を支えた。
- 斎藤實の遺品を水沢に疎開・寄贈。名誉市民。白寿・99歳で水沢に眠る。
明治27年~大正元年(海軍軍人時代)
- 1894(明治27)年
日清戦争侍従武官(37歳) - 1896(明治29)年
軍艦「富士」回航委員
スエズ運河通航成功(39歳) - 1897(明治30)年
「秋津州」艦長(40歳) - 1898(明治31)年
海軍次官7年あまり(41歳) - 1904(明治37)年
日露戦争 - 1906(明治39)年
海軍大臣8年あまり(49歳) - 1912(大正元)年
海軍大将(55歳)
- 日清戦争が起きた明治27年には武官、少佐として明治天皇に侍従した。
- 大型軍艦「富士」を英国からスエズ運河経由で日本まで無事回航した。
- 山本海軍大臣の下で8年間次官を務めた。(この間に日露戦争勃発)
- 山本権兵衛の後を受けて8年間余海軍大臣を務めた。(日本海軍育ての親)
大正8年(朝鮮総督時代)
1919(大正8)年
朝鮮総督約8年間(62歳)
- 憲兵警察から普通警察制に改革し、文化政治・徳化政治に方向転換した。
- 「一視同仁」の実現に努め、通算10年の在任期間を通じ民生安定を心がけた。
- 産業の開発振興、農民の自作農化に努めた。
- 教育制度の刷新と朝鮮人特別任用を実施した。

斎藤総督と春子夫人
昭和2年~昭和4年(ジュネーブ・海軍軍縮会議)
- 1927(昭和2)年
海軍軍縮会議日本首席全権委員(ジュネーブ会議)
(70歳) - 1929(昭和4)年
再び朝鮮総督約2年間
(72歳)
- 総督在任のまま全権として赴き、海軍軍縮について話し合った。
- 米英が対立するなか斎藤實は会議の成功のため中心的役割を果たした。
- 国際協調を重視する斎藤實の外交手腕は各国から高く評価された。
- 会議は妥協ならず中止となったが、次のロンドン会議への橋渡しとなった。
昭和7年~昭和10年(内閣総理大臣)
- 1932(昭和7)年
第31代内閣総理大臣
(75歳) - 1935(昭和10)年
日本少年団連盟総長
12月内大臣(78歳)
5・15事件後の非常事態(政情不安、経済不況、失業・貧困・凶作等の社会不安)の克服に貢献した。
特に挙国一致の施政により社会不安の沈静、政治的動揺の一掃に努め、恐慌にあえぐ農村の救済対策に陣頭指揮をとったり、軍事予算の大増額をねらう軍部を抑えて外交優先をまとめたりして危機の乗切りに成功した。
(しかし、次第に軍部の圧力が増大し、陸軍の粛清や我が国の国際的孤立の回避に積極手腕を発揮することができなくなっていった)
昭和11年(二・二六事件)
1936(昭和11)年
二・二六事件で薨去
小山崎斎藤墓地に眠る
(79歳)
陸軍内部で統制派と対立し、武力によって国家改造を企図していた皇道派青年将校は昭和11年2月26日1500の兵を率いて反乱を起こし、首相官邸、陸軍省、国会、警視庁、その他の要所や大臣私邸等を襲い、要人多数を死傷させた。国際協調派の斎藤實内大臣は即死。春子夫人も重傷を負った。反乱は4日間で鎮圧されたが、以後軍部統制派は政治的発言権を更に強めた。

愛孫と共に
(二・二六事件の2日前)
© 2002 斎藤實記念館
この記事に関するお問い合わせ先
- みなさまのご意見をお聞かせください
-
更新日:2023年12月07日