斎藤實の生涯

更新日:2023年09月29日

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孤高の政治家・斎藤實

斎藤實氏の顔写真

 斎藤實は安政5(1858)年10月27日、留守家家臣斎藤家に生まれました。少年時代から水沢の三秀才に数えられるほど、勉強家でした。
 「わたしは、決して偉い人間でも何でもないんだ。全く凡人に過ぎない。ただ、何事も一生懸命努力してやってきたつもりだ。
 そうしているうちに、いつか世間から次々と、ドエライ椅子に押し上げられてしまっていたまでだ。」斎藤實の回顧談の一節です。
 「偉大なる凡人」の明晰な頭脳、温厚篤実な性格、不屈の精神など、その人柄と実力は早くから衆目の認めるところでした。
 孤高の政治家として、明治・大正・昭和を生き抜いてきた生涯を辿ってみましょう。

椅子に座った斎藤實銅像の全体を写した写真

斎藤實銅像(水沢公園)

 斎藤實(幼名富五郎)は、大きな希望を抱いて上京するまで、吉小路の生家で育ちました。幼少時から、寺子屋の師匠でもあった父から厳しい教育を受け、10歳で四書五経の素読を完了したと言われます。また、竹馬の友であった後藤新平は同じ小路の出身で、ともに胆沢県庁の給仕をしながら郷校・立生館で学んでいます。
 明治5(1872)年、15歳で上京後も働きながら勉学に励み、翌年海軍兵学寮に入学、6年後に優秀な成績で卒業しました。
 在学当時の海軍兵学寮は、英国から招かれた34人の教授陣を中心に海軍教育の大規模な刷新がなされた時期と言われます。
 教科書は英人の原書をそのまま採用し、艦船の操縦、航海の練習に至るまで、最新の教育と厳格な訓練が施されました。富五郎(18歳の時に實と改名)の勤勉ぶりは、今も残されている克明な当時のノートにも表われています。在学中から英語の語学力も抜群で、27歳の時には、選ばれてアメリカに4年間留学。この間にアメリカやヨーロッパの情勢を学ぶなど、国際感覚を磨きました。

軍服を着て正装した斎藤實氏の写真

米国留学公使館付武官当時(明治17年)

 帰国後、明治25(1892)年に内助の功著しかった夫人、仁礼春子と結婚し、その後侍従武官・巡洋艦長・海軍次官などを歴任、軍政家の道を歩むことになりました。
 明治39(1906)年に第一次西園寺内閣の海軍大臣に就任し、以後大正3(1914)年まで8年余り、海軍大臣を務めました。
 大正8(1919)年には、岩手県出身の最初の内閣総理大臣で平民宰相と言われた原敬の要請により、朝鮮総督に就任しました。斎藤夫妻が初めて京城に赴いた時、南大門において夫妻の馬車に爆弾が投げられ、民衆で埋まった広場は修羅場と化し、30余名が負傷しましたが、斎藤實は泰然自若とし、顔色一つ変えずに平静な態度であったと言われます。
 総督としての斎藤實は、従来の力による統治から文化統治へと施政の転換を行うなど、前後2回、通算10年余りにわたり、民生の安定に努めました。
 この間、ジュネーブで開催された海軍軍縮会議に主席全権委員として出席し、各国間の調停役としても尽力しました。

ワイシャツを着てズボンを膝までまくり上げた男性6名が横1列に並んで田植えをしている白黒写真

田植えをする斎藤総督(昭和5年)

 昭和7(1932)年、五・一五事件で犬養毅内閣が倒れた後を受けて、第30代内閣総理大臣に就任し、「挙国一致内閣」を組閣しました。
 経済恐慌克服のために「自力更生」を提唱し、自らの力で道を拓いていくことを訴えるなど、昭和初期の難局を打開する原動力となりました。
 昭和10(1935)年12月、内大臣に就任しましたが、翌年いわゆる二・二六事件で陸軍の一部青年将校の凶弾に倒れ、79歳の生涯を閉じました。

正装した斎藤内閣閣僚の方々が片手にグラスを持って並んで立っている写真

親任式を終えた斎藤内閣閣僚(昭和7年)

 「故郷難忘」、斎藤實は終生故郷を愛し、雅号も水沢の地名にちなんだ「皋水(こうすい)」を用いました。昭和7(1932)年に建てた水沢の邸宅・書庫には、郷里の人達のためにと文庫閲覧室もつくられ、現在、展示館とともに記念館の一部として公開されています。

庭園に囲まれた日本家屋の斎藤實氏の平屋全体を上空から写した写真

庭園から邸宅・書庫を望む

© 2002 斎藤實記念館

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