旧内田家住宅
内田家初代は留守政景(伊達政宗の叔父)に召しかかえられ、足軽奉行を勤めたと伝わります。弘化4(1847)年「水沢惣土御知行高調」によると家禄は家老の余目家129石51升に次ぐ96石2升、慶応2(1866)年「水沢家中家並覚牒」では大番役・内田勘之丞屋敷とあり、二番座召出(注釈)の上級家臣であったことがわかります。また、内田家伝来の家系図から、後藤新平〔別窓リンク:新平記念館〕の実家・後藤家より内田家へ3人の養子があったことも判明しています。
屋敷は茅葺きの薬医門を表門とし、同じく茅葺きの主屋のほか、板塀と塀重門(へいじゅうもん)、井戸、表庭、裏庭が残されています。平成2(1990)年に復元された主屋(175.62平方メートル)の建築年代は不明ですが、嘉永6(1853)年に修理を行った際の棟札が残されていることから、19世紀初め頃と考えられます。式台のある整形田の字型4間取りで延床面積は175.62平方メートル、主屋は桁行7間、梁間4間半(復元)です。
(注釈)召出…正月の宴会に召し出される資格のある家柄。二番座は正月二日の儀式に出ることが許されている家格。
奥州市指定有形文化財(指定:平成2(1990)年3月31日)
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更新日:2023年09月29日