城下町水沢と町人
水沢の町は水沢城(伊達二十一要害の一。臥牛城とも)を中心に家臣の屋敷、その外側に町人の家屋、その更に外側を寺院に取り囲まれた、典型的な城下町の構成をしています。奥州街道、秋田街道、黒石街道などの各街道、また、乙女川や北上川の舟運とも結ばれており、古くから地方物産交流が盛んに行われてきました。江戸時代になると「商品が豊富で値段も安い」と近郊都市からも客がやってくるほどの盛況ぶりとなり、商人たちの熱心な姿勢は『水沢商人が歩いた跡には草も生えない』と評されるほどでした。
この地を治めた水沢伊達氏は家格が高く、家臣も多く抱えていましたが禄高が奮わないため経済状況は芳しくなく、初代領主宗利の時代に漁網や筆、煙管の生産が、下級武士を含む城下の民や農民たちに奨励されました。中でもかつて宮城県岩切・利府周辺を治めていた頃の経験を活かした手漉き麻製の漁網は、北上川舟運で沿岸まで運ばれ、北は蝦夷地(北海道)から南は房総半島まで販路があるほど好評を博し、商人たちの取引が活発になる起爆剤となりました。
安政の大火や幕藩体制の崩壊という大きな時代の流れ、さらに自由取引や鉄道開通、道路の発達によってさらに活性化した商業取引は、明治23(1890)年の水沢停車場開通によって大きな山場を迎え、大戦景気の大正時代を経て、昭和4(1929)年の世界恐慌、昭和8(1932)年の三陸地震や冷害などにより減退していきますが、関東大震災後に普及した看板建築など独特の街並みが今も残されています。
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更新日:2023年09月29日