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更新日:2025年08月26日

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藩政時代の郷学『立生館』にまつわる品々

家臣・庶民の子弟教育のために開かれ、多くの郷土の偉人が学ぶ

仙台藩校「養賢堂(ようけんどう)」に学び、後に幕府の学問所「(しょう)平坂(へいざか)学問所(がくもんじょ)昌平黌(しょうへいこう))」に学んだ堀籠膽(ほりごめたん)(すい)が、天保6年(1835年)家老の吉田秀光とともに、水沢伊達家10代宗衡(むねひら)公の許しを得て新設した学問所が立生館(りゅうせいかん)である。武士だけが学んだ藩校(はんこう)に対して、庶民にも門戸を開いていたため郷学(ごうがく)といわれた。当初水沢城内の一室を講堂としていたが、後に大手門内の南側に学館が建設された。

天保12年(1841年)宗衡公が釈奠(せきてん)の礼(※)を上げ、創設の趣旨「(もと)()ちて(みち)(しょう)ず」を著す「立生(りゅうせい)」を教学の精神とした。また学問奨励、学業優秀者の引立て、学館の取締まり等に関する根本精神を5か条に簡明に示したものを、「立生」の額とともに自ら書き講堂に掲げた。

明治2年(1869年)胆沢県権知事 武田(たけだ)(ゆき)(たか)が、立生館を再開すれば教化の助けになると政府に報告し、翌年胆沢県(いさわけん)(ごう)学校(がっこう)として再開された。胆沢郷学校規則は、その時示したものである。

釈奠(せきてん)とは、孔子や偉大な儒学者を祀る儀式のこと。しゃくてん、さくてんともいう。江戸時代、幕府と林家(朱子学者 林羅山(はやしらざん)が祖)が湯島聖堂にて執り行っていた方式を各藩が倣って行った。

↑ 学館の根本精神を5か条(上)と明治期 胆沢郷学校規則(下)の掛軸

                                  ↓ 至聖孔子の木主

                                                                         ↑ 郷学「立生館」で用いられた、時間の始終を知らせる太鼓。(現在、水沢小学校に貸し出し中)

                          ↑ 立生館で使用された机