後藤新平 略年譜

更新日:2023年10月01日

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着物を着た女性が、赤ちゃんを抱っこしている挿絵
後藤新平略年譜 (年齢は誕生日以後の満年齢。誕生日前の年齢はこれより1を引く。)

年 〔年齢〕

月 日

できごと

安政4(1857)年

〔0歳〕

6月4日

陸中国胆沢郡塩釜村(現奥州市水沢)吉小路に、留守家家臣後藤左伝治実崇と利恵の長男として誕生。 誕生日について戸籍には「6月5日」とあるが、伯自身の履歴書に「4日」と記してあるので、誕生記念日等皆これによる。太陽暦7月24日に当る。

安政6(1859)年

〔2歳〕

3月13日

水沢大火、後藤家菩提寺増長寺を始め全町がほとんど焼ける。

文久2(1862)年

〔5歳〕

 

このころ既に句を誦し、書を能くする。

元治元(1864)年

〔7歳〕

3月

武下節山の家塾で漢字を修める。

慶応3(1867)年

〔10歳〕

2月1日

留守家邦寧の奥小姓となる。

 

8月

武下塾をやめて藩校立生館に入り経史、詩文を修める。

明治元(1868)年

〔11歳〕

4月12日

祖父実仁死去につき父実崇と共に忌服届を提出。

 

6月

幼兵に編入され、立生館休学。

明治2(1869)年

〔12歳〕

2月

留守家削封と共に後藤家は土着帰農して平民となる。

 

8月12日

府藩県設置、これに伴い胆沢県庁を水沢旧城内に設置。

 

9月

安場保和大参事の学僕となり、3か月後史生岡田俊三郎(後の阿川光裕)に就く。

明治3(1870)年

〔13歳〕

正月

立生館を改めて郷学校となる。その始業式の日選ばれて、県庁の武田権令の前で論語里仁篇を講ずる。

 

2月25日

友人3人を誘って郊外に遊び、「郊遊記(漢文)」を作る。

 

11月4日

岡田権大属の管内巡視に随伴し、山ノ目・金成・高清水・涌谷・石巻に出張。

明治4(1871)年

〔14歳〕

2月

初めて上京、太政官少史荘村省三の学僕となる。

 

4月9日

この日付で郷里の父から慈愛溢れる処世訓を寄せられる。

明治5(1872)年

〔15歳〕

正月

帰郷し武下塾で詩文を修める。

明治6(1873)年

〔16歳〕

5月

阿川の勧めにより福島県須賀川遊学の途に上る。

 

5月16日

須賀川に到着、阿川の官舎に入る。

 

5月22日

福島県第一洋学校に入学。

明治7(1874)年

〔17歳〕

1月

遊学中途で帰郷したが、父の誡めにより再び福島に引き返す。

 

2月2日

須賀川医学校に転じ、生徒寮に入る。

 

9月8日

阿川の留守中、預り金を費消して始末に窮し、父に救済方を懇願。

明治8(1875)年

〔18歳〕

7月4日

福島県病院六等生となり、医学校生徒取締(内舎副舎長)として月給3円受給。

 

9月2日

五等医生拝命、月給5円。

明治9(1876)年

〔19歳〕

2月22日

依頼により五等生解職。

 

3月28日

生徒寮内外舎長となり、月給8円受給。

 

8月初旬

自ら調剤の眼薬「済衆水」を父に発売させる。

 

8月8日

辞表提出。

 

8月10日

辞表が聴許される。

 

8月20日

名古屋安着。1月に愛知県十一等出仕として転任していた阿川邸に落ち着く。

 

8月25日

愛知県病院三等医拝命。医局診察専務を仰せ付けられる。月給10円。

 

10月1日

阿川家を出て教授司馬凌海の家塾から通院、教師ローレッツの指導を受ける。

明治10(1877)年

〔20歳〕

1月20日

公立医学所二等授業生。月給12円。

 

4月

司馬凌海解職となったので、再び阿川家に入る。

 

6月15日

この日から23日まで医術開業試験を受ける。

 

7月

大阪陸軍臨時病院に行き、自費見学。

 

8月8日

愛知県医学校四等訓導。

 

8月20日

依願解職。

 

9月3日

大阪陸軍臨時病院の傭医。日給60銭。

 

9月15日

この日付で医術開業免状下付。

 

11月27日

名古屋鎮台病院傭医。月給15円。

明治11(1878)年

〔21歳〕

3月1日

再び愛知県病院に帰り、名古屋公立医学校一等訓導。月給25円。

 

3月3日

公立病院三等診察医兼務。

 

6月17日

第三区医院集会所で講義担当、以後毎週日曜日出張講義。

 

7月13日

公立病院二等診察医兼医学校一等訓導。月給30円。

 

10月

「健康警察医官を設くべきの議」を安場県令に建白。

 

11月27日

衛生事務取調べのため東京出張。

 

12月10日

「愛知県ニ於テ衛生警察ヲ設ケントスル概略」を内務省衛生局長長与専斎に呈する。

明治12(1879)年

〔22歳〕

1月

両親及び弟彦七を東京に招く。

 

2月17日

東京から名古屋に帰る。これより前に両親らは既に名古屋に来ている。

 

7月9日

公立病院一等診察医兼医学校監事。月給40円。

 

12月24日

愛知県愛衆社設立。

 

12月27日

横井信之院長兼医学校長病気中、その職務代理となる。

明治13(1880)年

〔23歳〕

2月17日

公立愛知病院一等診察医兼医学校監事中教諭。

 

3月26日

郷里の父へ許婚者坂野秀との婚約解消を通告。

 

5月8日

横井信之退職につき公立愛知病院長兼医学校長心得、月給60円。

 

8月5日

この日から30日間賜暇、郷里の病父を見舞う。

 

9月

衛生及び医事に関する「四季医報」第1号発刊。

明治14(1881)年

〔24歳〕

1月

国貞県令宛て「聯合公立医学校設立之儀」建白。この年から私塾対育舎を開き、50余名の子弟を育成。

 

1月30日

父急病の電報に接し即日名古屋を出発して水沢に急行。

 

10月19日

愛知県医学校長兼愛知病院長。

明治15(1882)年

〔25歳〕

2月

長与衛生局長から衛生局御用係採用の内命。

 

4月6日

板垣退助岐阜に遭難。招電により翌7日急行、負傷の手当てをする。

明治16(1883)年

〔26歳〕

1月13日

父の訃報に接し、弟の彦七を代わりとして帰郷させる。

 

1月25日

内務省御用係、准奏任取扱、月俸100円。衛生局照査係副長となる。

 

5月22日

衛生局東京試験所長心得兼務。

 

9月

安場和子と結婚。

明治17(1884)年

〔27歳〕

1月17日

衛生局牛痘種継所長兼務。

 

7月19日

衛生局東京試験所長心得を免ぜられる。

明治18(1885)年

〔28歳〕

6月25日

衛生局第二部長。

 

7月2日

衛生局牛痘種継所長兼務を免ぜられる。

明治19(1886)年

〔29歳〕

1月16日

非職仰せ付られる。

 

1月21日

改めて内務省四等技師の辞令を受ける。

 

1月23日

衛生局勤務の辞令を受ける。

明治20(1887)年

〔30歳〕

9月

「普通生理衛生学」を著す。

明治21(1888)年

〔31歳〕

 

この年、私立衛生会雑誌に「職業衛生法」を発表。

明治22(1889)年

〔32歳〕

8月28日

「国家衛生原理」を著す。

明治23(1890)年

〔33歳〕

2月5日

この日郷里からの国会議員立候補の勧誘に対し謝絶の書簡を発送。

 

3月18日

在官のまま自費ドイツ留学を許される。

 

4月5日

横浜出帆、渡独の途につく。

 

8月

ベルリンにおける国際医学会に出席。

 

9月19日

「衛生制度論」を発行。

明治24(1891)年

〔34歳〕

8月10日

万国衛生及び民勢会議に日本代表として出席。

明治25(1892)年

〔35歳〕

1月21日

ドクトル試験に合格。

 

2月22日

正六位に叙せられる。

 

4月21日

この日からローマにおける「万国赤十字会議」に出席。

 

5月2日

マルセーユ出帆、帰朝の途に就く。

 

6月10日

横浜着。

 

11月17日

内務省衛生局長。

明治26(1893)年
〔36歳〕

3月16日

医術開業試験委員長。

 

7月21日

「万国衛生年鑑」翻訳発行。

 

9月23日

長男一蔵誕生。

 

10月28日

「黴菌図譜」翻訳発行。

 

11月15日

中央衛生会幹事兼任。高等官三等に叙せられる。

 

11月16日

相馬事件に連座して入獄。

明治27(1894)年
〔37歳〕

5月3日

無罪判決。

 

5月25日

保釈出獄。

 

8月

保田の存林寺に家族と静養中に「自叙伝」を書く。

 

12月7日

東京控訴院は原裁判どおり無罪判決を下し、検事の上告もなく青天白日の身となる。

明治28(1895)年
〔38歳〕

4月1日

臨時陸軍検疫部事務官長に任ぜられる。高等官三等。

 

9月7日

再び内務省衛生局長となり、中央衛生会幹事を兼ねる。

 

11月13日

台湾における阿片政策に関し、内務大臣及び台湾事務局総裁伊藤博文に意見書提出す。

 

12月7日

再び伊藤博文に「明治恤救基金」案を提出

明治29(1896)年
〔39歳〕

4月14日

台湾総督府衛生顧問嘱託。

 

6月13日

桂新総督赴任につき伊藤総理・西郷海相等と共に東京出発。神戸から軍艦「吉野」に乗り初めて台湾に赴く。

 

6月20日

軍艦「吉野」に乗り基隆出発、南支視察の途に上る。この年秋ごろ陸軍検疫報告書が独帝ヴィルヘルム二世の賞讃を博し「後藤新平」の名早くもベルリンに伝わる。

明治30(1897)年
〔40歳〕

6月8日

血清薬院長心得。

 

7月15日

永薬病院主管。

明治31(1898)年
〔41歳〕

3月2日

台湾総督府民政局長。

 

6月20日

新官制により民政局長改め民政長官。

明治32(1899)年
〔42歳〕

1月25日

台湾銀行創立委員。

 

11月8日

台湾総督府鉄道部官制が成り、鉄道部長。

明治33(1900)年
〔43歳〕

3月25日

福州厦門地方へ出張。

 

4月25日

帰府。

 

8月23日

奉勅訓令あり、いよいよ南清政策の実行に着手。

 

8月23日

広瀬海軍大佐を同行し、厦門に急行。

 

8月31日

帰府。

明治34(1901)年
〔44歳〕

6月1日

台湾総督府専売局長。

 

6月27日

勲三等瑞宝章授与。

明治35(1902)年
〔45歳〕

6月13日

欧米視察の途に上る。

 

12月17日

帰台。

明治36(1903)年
〔46歳〕

11月20日

貴族院議員に勅選される。

明治37(1904)年
〔47歳〕

8月19日

桂首相に対し財政政策に関し意見書提出。

明治38(1905)年
〔48歳〕

8月28日

特殊な任務を帯びて満韓地方へ出張。

明治39(1906)年
〔49歳〕

1月20日

帝国ホテルにおける斎藤實海相就任祝賀会に出席。

 

4月11日

勲功により男爵を授けられる。

 

10月3日

台湾を去り、9日東京着。

 

11月13日

南満州鉄道株式会社総裁を命ぜられる。この日勲一等旭日大綬章を賜る。同日、台湾総督府民政長官を免ぜられ、改めて台湾総督府顧問・関東都督府顧問を仰せ付けられる。

 

11月30日

従三位に叙せられる。

明治40(1907)年
〔50歳〕

5月23日

清国皇室礼問の途に上る。

 

5月29日

清国皇帝及び西太后に謁見。

 

6月3日

袁世凱と会見し「箸同盟」を提唱。

 

9月28日

厳島にて伊藤公に大アジア主義を提唱。

 

12月11日

満鉄総裁として清国皇族溥倫貝子を歌舞伎座に歓迎招待。

明治41(1908)年
[51歳]

1月1日

独逸皇帝からプロシア国王冠一等勲章を贈られる。

 

4月22日

訪露のため神戸出帆、大連に向かう。

 

5月18日

露帝ニコライ二世に謁見。

 

6月15日

東京帰着。

 

6月18日

ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツの終身会員に選挙され、ロンドンへ会費を送る。

 

7月13日

桂首相に対し満鉄を逓信省管轄とすること、その他の条件を出し、逓相就任を承諾。この夕刻から発病入院。翌14日逓相として入閣。満鉄総裁を免ぜられる。

 

7月22日

坂西陸軍中佐に托し、法庫門鉄道問題に関し袁世凱に親書を渡す。

 

7月24日

台湾総督府顧問・関東都督府顧問を免ぜられる。

 

9月14日

露皇帝から白鷲大綬章を贈られる。

 

12月5日

鉄道院総裁を兼任。

明治42(1909)年
〔52歳〕

6月1日

清国皇帝から贈られた頭等雙龍宝星を身につけることが許される。

 

10月24日

自作「大国民の歌」を作曲させ刊行。

 

12月20日

鉄道院職員の服制を制定。

明治43(1910)年
〔53歳〕

4月1日

来朝の清国皇族濤貝勒を三井集会所に招待歓迎。

 

6月22日

新設拓殖局副総裁兼任。高等官一等に叙せられ、特に親任官の待遇を賜わる。

明治44(1911)年
〔54歳〕

5月4日

郷里水沢公園において、伯の寿像除幕式(太平洋戦争中、鉄類を国に献納のため撤去される。)

 

5月5日

拓殖局副総裁の兼任を免ぜられる。

 

6月17日

台北新公園において伯の寿像除幕式。

 

7月20日

正三位に叙せられる。

 

8月30日

桂内閣瓦解により逓信大臣及び鉄道員総裁を免ぜられる。

 

11月28日

訳書「官僚政治」を発刊。

明治45(1912)年
大正元年
(7月30日改元)
〔55歳〕

2月25日

台南駅頭において伯の寿像除幕式。

 

4月3日

台中公園において伯の寿像除幕式。

 

4月15日

伯の腹案に成る戯曲「平和」を発刊。

 

4月17日

母堂の米寿の賀宴を日本橋倶楽部で催す。

 

7月6日

桂公と共にロシア訪問の途に上る。モスクワに在る時、明治天皇御不例の報に接し、急いで帰国の途に就く。

 

7月30日

スイヅラン駅において明治天皇崩御の悲報に接する。

 

8月11日

帰京、直ちに参内。

 

12月21日

第三次桂内閣逓信大臣兼鉄道院総裁・拓殖局総裁となる。

大正2(1913)年
〔56歳〕

1月20日

三田の桂邸で、桂の新党結成発表に立ち合う。

 

2月20日

内閣総辞職依願免本兼官。

 

2月22日

特に前官の礼遇を賜る。

 

10月25日

立憲同志会脱退意思表明。

大正3(1914)年
〔57歳〕

6月下旬

山縣公を小田原に訪ねて東洋銀行設立の必要を説く。

 

7月

東洋銀行設置運動に熱中。

 

8月

東亜共同経済機関設置案発表。

大正4(1915)年
〔58歳〕

6月4日

貴族院において対支外交問題について大隈首相と論戦。

大正5(1916)年
〔59歳〕

10月9日

寺内内閣の内務大臣兼鉄道院総裁。

 

12月23日

鉄道院会議室に技監及び各局長を召集し、広軌改築案について意見交換。

 

12月25日

閣議において広軌準備復活を要請し、翌年12月決定させる。

大正6(1917)年
〔60歳〕

6月6日

臨時外交調査会委員。

 

7月31日

拓殖調査委員会委員長を仰せ付けられる。

大正7(1918)年
〔61歳〕

4月8日

和子夫人永眠、享年53歳。

 

4月13日

外務大臣に任ぜられる。

 

7月3日

英帝国一等勲章並びに支那共和国一等大綬嘉禾章を受領し、身につけることを許される。

 

7月15日

宮中においてシベリア出兵問題についての元老会議に出席。

 

9月29日

寺内内閣総辞職、依願免外務大臣。特に前官礼遇を賜わる。

 

10月16日

臨時外交調査委員会委員。特に国務大臣の礼遇を賜わる。

大正8(1919)年
〔62歳〕

2月20日

ハルピン日露協会学校創立委員長となる。

 

2月24日

拓殖大学学長就任。

 

3月4日

戦後の欧米視察の途に上り、米・英・仏・和等を巡遊。

 

11月13日

再び米国を経て横浜入港帰国。

 

12月26日

ベルギー王冠第一等勲章受領し、佩用方允許される。

大正9(1920)年
〔63歳〕

2月7日

前年東京市民に質問した三ヵ条の回答報告会を鉄道協会で開く。

 

2月18日

日露協会会頭に就任。

 

6月16日

大調査機関設置案について原首相・横田法制局長官と長時間協議。

 

6月25日

この日から胆石病により私邸で療養。

 

9月7日

平和条約締結並びに大正4年ないし大正9年事件の功により旭日桐花大綬章を授けられる。

 

12月7日

東京市会において市長に選挙される。

 

12月8日

市会議長ら来訪、市長就任を懇請されたが受諾せず。その後渋沢栄一その他の勧説がある。

 

12月16日

正式に就任を受諾。

 

12月17日

東京府東京市長就任御裁可となる。年俸25,000円

大正10(1921)年
〔64歳〕

1月26日

市長俸給全額を市に寄付。

 

2月7日

市民の声の報告会を鉄道協会で開く。

 

4月27日

いわゆる8億円計画案を市参事会に提出。

 

11月3日

市連合青年団神宮例祭第1回運動会に東宮殿下の台臨を仰ぎ、団長としてご説明申し上げる。なお、この日来朝中の英新聞王ノースクリフ卿・米上院議員フィーラン氏一行を自邸に招き、茶の湯の歓待。

大正11(1922)年
〔65歳〕

1月15日

安田家から東京市政調査会設立費350万円の寄附の申し出。

 

4月15日

伯を総裁として全国少年団、赤坂離宮に英国皇太子を奉迎。

 

4月16日

財団法人東京市政調査会(2月24日設立認可)会長。

 

6月12日

東京連合少年団団長となり、その後間もなく「少年団日本連盟総裁(後、総長)」。

 

9月25日

勲功により特に子爵に陞叙される。

 

9月30日

従二位に叙せられる。

 

11月

加藤(友)首相と日露復交についての黙契なる。

大正12(1923)年
〔66歳〕

1月16日

北京滞在中の労農政府極東代表ヨッフェに病気療養のため来日することを勧める。

 

1月23日

上海滞在のヨッフェから欣然招きに応じて渡日する旨の電報が届く。

 

2月1日

ヨッフェ入京。ヨッフェを築地精養軒に訪ねて日ソ復交に関して会談。

 

2月4日

加藤首相に宛て当局官権のヨッフェに対する態度を難詰した書簡を発送。

 

2月5日

日波協会名誉会長。この日赤化防止団員が伯邸に乱入し、家財等を破壊。

 

2月28日

暴漢再び入って乱暴、長男一蔵負傷。

 

3月2日

母堂の告別式執行。

 

3月3日

水沢増長寺で亡母の埋葬式執行。

 

3月29日

熱海に赴き、ヨッフェと会談。

 

4月15日

亡母の七七日に故人の遺志として東京連合少年団に金1000円を寄附。

 

4月27日

東京市長辞職認可。

 

5月6日

精養軒にヨッフェを訪ねて会談。

 

5月25日

会談の結果「日露内交渉顛末」を刊行。

 

6月8日

ヨッフェを訪問し、日露交渉は政府の手に移ったことを伝達。

 

7月5日

上野自治会館において、日本大学学生有志国際連盟研究会主催の国際問題講演会において、国際政治の倫理化を高唱。

 

9月1日

関東大震災。

 

9月2日

山本(権)内閣成り、内務大臣。

 

9月5日

アメリカのビーアドに招電を発する。

 

9月6日

帝都復興の議を閣議に提出。

 

9月12日

帝都復興に関する詔書発布。

 

9月13日

恩賜財団済生会副会長嘱任。

 

9月19日

帝都復興審議会委員を仰せ付けられ、幹事長。

 

9月29日

帝都復興院総裁兼任。

大正13(1924)年
〔67歳〕

1月7日

山本内閣総辞職、本官並びに兼官を免ぜられる。

 

2月25日

盛岡市商品陳列所において「政治闘争の倫理化」と題して講演。

 

2月26日

水沢で亡母の法要執行。

 

4月3日

家庭電気普及会創立、会長に推戴。

 

4月8日

和子夫人7回忌法会を営み、追悼会を帝国ホテルにおいて行う。

 

9月30日

東京市会において再び市長に選挙される。

 

10月2日

市長の選挙を辞退。

 

10月16日

社団法人東京放送局総裁。

 

10月28日

芝増上寺において新政会講習会員のために「政治の倫理化」を講演。

 

11月7日

上野池端無線電話普及展覧会において初めて放送演説を試みる。

大正14(1925)年
〔68歳〕

3月22日

東京放送局仮放送に際し、挨拶を放送。

 

3月26日

東京を発ち、満鮮の旅へ上る。

 

4月8日

奉天において張作霖と会談、張の中央進出を戒む。

 

7月3日

加藤(高)首相訪問、極東拓殖会社創立の意見を開陳。

 

7月12日

芝愛宕山新築放送局において本放送開始の挨拶を放送。

 

12月17日

万国基督教青年会理事モット博士来日につき、自邸に旅装を解かせる。

大正15(1926)年
昭和元年
(12月25日改元)
〔69歳〕

1月1日

「内憂外患ノ諸相ヲ直視セヨ」を東亜同志会から刊行。なおこの日少年団総裁として挨拶を放送。

 

1月5日

自著「公民読本」3巻を刊行。

 

2月11日

建国祭に列して帰邸の後、1回目の脳溢血で臥床。

 

4月20日

青山会館において“政治の倫理化運動”第一声をあげる。この後全国各地を遊説。

 

6月6日

少年団日本連盟が伯の古稀を慶祝して弥栄の行事を行う。

 

7月28日

普選準備会の綱領会則発表。

 

12月25日

大正天皇崩御。今上天皇践祚。

昭和2(1927)年
〔70歳〕

4月8日

日独文化協会設立、会長。

 

6月15日

田中首相を訪問して一書を呈し、対支外交の重要性を警告。

 

8月4日

2回目の脳溢血で臥床。

 

12月5日

最後の露国訪問の途に就く。

 

12月24日

外務人民委員代理カラハンと会見。漁業協約について会談。

 

12月31日

中央執行委員会議長カリーニンと会談。

昭和3(1928)年
〔71歳〕

1月7日

共産党中央執行委員会において党書記長スターリンと会談。

 

1月21日

モスクワ発、帰朝の途に就く。出発間際に日本政府からの漁業条約調印決定の吉報に接する。

 

6月10日

郷里水沢訪問。

 

6月12日

水沢町内の神社寺院に参詣し、親戚故旧を招待。

 

11月10日

勲功により伯爵に陞叙。

 

12月6日

日本少年団総長として加盟健児8万の代表4,000人を率い、築地海軍大学校附属地において天皇陛下の御親閲を賜わる。

昭和4(1929)年
〔72歳〕

1月16日

国民に対する遺言として、電力・保険・酒精(アルコール)含有飲料の三大国営案を手記する。

 

4月3日

少年団の守護神奉斎会並びに陞爵祝賀会出席。この夜、日本性病予防協会の依頼に応じ、講演のため岡山に向け東京駅発、西下。

 

4月4日

米原附近列車中で第3回目の脳溢血発病。京都に下車し府立病院に入院。

 

4月13日

午前5時30分逝去。特旨をもって正二位に叙せられる。
午後9時54分霊柩京都駅発車。

 

4月14日

午前9時20分東京駅着。

 

4月15日

勅使海江田侍従の御差遣あり、幣帛・祭粢料・生花を御下賜。更に優渥なる御沙汰を賜わる。皇后陛下・皇太后陛下並びに各宮家からそれぞれ御使いが遣わされ、御弔問をいただく。

 

4月16日

青山斎場において葬儀執行。勅使・皇后御使い・皇太后宮御使い・各宮家の御使いが参列される。青山墓地に和子夫人と並んで埋葬。

他界後の銅像建立についての年表

月 日

【附記】 他界後に建立された銅像

昭和5(1930)年

10月12日

大連星ヶ浦公園内霞ヶ丘に伯の銅像建立。

昭和46(1971)年

4月22日

水沢公園に残された旧銅像の台座の上にボーイスカウト姿の伯の銅像建立。これはライオンズクラブ年次大会(302E-4)地区の記念事業として建立されたものである。製作者 米治一氏(高岡出身)

昭和53(1978)年

6月5日

水沢公園内に建立の銅像除幕式。〔これは大連に建立の銅像と同型(朝倉文夫作)のものである。〕

  9月7日 後藤新平記念館開館。

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〒023-0053
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