(3)名古屋時代

更新日:2023年09月29日

ページID: 1099
口髭の生えた名古屋時代の後藤新平氏の白黒の顔写真

健康警察医官ヲ設クベキノ建言〔「愛知県公立病院及医学校第一報告中」より〕

  明治11(1878)年10月

 当時愛知県病院の二等診察医だった新平は、伝染病などの予防衛生を担当する医官を愛知県内の病院に設置すべきとの建白書を、愛知県令・安場保和に提出した。この構想は、同年12月、内務省衛生局長・長与専斎へも提出され、長与の目にとまったことで、新平が内務省へ転じるきっかけとなった。

原稿用紙に漢字と片仮名で文章が 書かれている「健康警察医官ヲ設クベキノ建言」の一枚目の写真

 (中略)

原稿用紙に漢字と片仮名で文章が 書かれている「健康警察医官ヲ設クベキノ建言」の日付「十一年十月」と「後藤新平」の名前が記された見開きの最後のページを写した写真

連合公立医学校設立之儀ニ付建白

 明治14(1881)年

 明治10(1877)年頃には、全国の病院では医学校を付属させて医師を養成するようになったが、府県ごとの経営では財政が厳しく、教員や設備の不足など課題を抱えていた。そこで新平は、地理の便宜を考慮した数県が協同で経営する連合公立医学校設立案を愛知県令・国貞廉平に建白した。(このときは、愛知、岐阜、三重の3県の連合を計画)

原稿用紙に漢字と片仮名で文章が 書かれている「連合公立医学校設立之儀ニ付建白」の最初のページを写した写真

 (中略)

原稿用紙に漢字と片仮名で文章が 書かれている「連合公立医学校設立之儀ニ付建白」の年号「明治十四年」と「後藤新平」の名前最後のページを写した写真

地方医学教育改正之意見

 明治15(1882)年12月

 愛知県医学校長・後藤新平より、文部省専門学務局長・濱尾新に宛てた意見書。

原稿用紙に漢字と片仮名で文章が 書かれている「地方医学教育改正之意見」の写真

(補足)濱尾新(はまお あらた/1849~1925年)…旧豊岡藩士。明治から大正にかけての教育行政官、政治家。子爵。文部大臣、元老院議官、貴族院議員、枢密顧問官、枢密院副議長、枢密院議長、内大臣を歴任。

この記事に関するお問い合わせ先

後藤新平記念館
〒023-0053
岩手県奥州市水沢大手町4-1
電話番号:0197-25-7870(代表)
ファックス:0197-25-7870
メールでのお問い合わせ
みなさまのご意見をお聞かせください
このページの内容は分かりやすかったですか
このページは見つけやすかったですか