阿川 光裕(あがわ みつひろ 1845-1906年)

更新日:2023年09月29日

ページID: 1195

学資も支給し新平を教育

立派な顎鬚を生やした着物姿の阿川光裕の白黒写真

 伊勢菰野藩士・阿川正策の次男として生まれ、安井息軒に入門し漢学を学びました。

 明治2年、胆沢県大参事として派遣された安場保和に随従し、史生として赴任してきました。(当時は、岡田俊三郎と名乗っていました。)

 明治7年、福島県須賀川郡長となり、新平を水沢から呼び寄せ、須賀川医学校へ入学させました。月3円の学資を支給し、生活の面倒も見ました。新平はその意に応え、近代諸科学の基礎と医学をここで学びました。

 明治8年、初代の愛知警察部長になり、新平を名古屋に招き寄せ、新平は愛知県病院に就職、後に病院長兼医学校長となりました。

 明治31年、新平が台湾総督府民政局長(後に民政長官)になったとき、阿川は新平より先に台湾に渡り、総督府県治課に籍を置いていました。阿川は台湾全島にわたり、阿片吸煙の習慣調査をしたりして新平の施政を蔭から援助しました。

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