ヨッフェ(A.A.Joffe 1883-1927年)

更新日:2023年09月29日

ページID: 943

日ソ国交回復の協調者

メガネをかけ、髭を生やしたヨッフェの白黒写真

 ヨッフェはソ連の外交官で、ドイツ、中国、オーストリアの各大使を歴任しました。

 大正12(1923)年のはじめごろ、後藤新平はロシアの怪物といわれたヨッフェを招請して日ソ国交回復の端緒をつくりました。

 このころ、世界の情勢は極めて複雑で、中国内部の不統一があり、孫文を中心とした広東政府はワシントン体制を承認しない態度をとっていました。

 一方ワシントン体制は、ソ連の主張を無視して成立していたことなど混乱の中にありました。

 ヨッフェ招請の背景となった国際関係は、日ソをさらに打開困難な可能性をはらんでいました。ヨッフェは孫文との接近をはかり、共同宣言を発表しました。

 後藤新平は、中国滞在中のヨッフェを日本に招き、国交回復のための私的な交渉を始めたのです。

 日本の右翼系は「赤化」の強い批判を後藤に浴びせましたが、世論は後藤の行動を強く支持しました。日露貿易の復活を望む声や、北洋漁業関係者の強い要求があり、外務省もこの交渉に注目したのでした。その結果、「後藤‐ヨッフェ会談」は一応の成果をあげました。

 このように、後藤がヨッフェと日ソ国交回復に着手したことは、日ソ関係の正常化を望む潜在的な世論を汲み上げたものであり、後世からも高い評価を受けました。

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