児玉 源太郎(こだま げんたろう 1852-1906年)

更新日:2023年09月29日

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台湾開発に尽くした総督、新平を信頼し任せる

軍服姿で胸に沢山の勲章が付けられた児玉 源太郎氏の白黒写真

 周防国都濃郡徳山横本町(現在の山口県周南市)で中級武士の子として生まれ、17歳で戊辰戦争に参加しました。

 明治維新後、陸軍に入り、明治25(1892)年、陸軍次官として軍政の実権を握りました。

 日清戦争の終わり頃、日本へ帰還する軍人のための検疫が問題となりました。イギリスで本国の伝染病が大流行したのを懸念したからです。児玉は後藤新平を推薦しました。後藤は見事に大検疫事業を成し遂げたのです。そればかりか、後藤は児玉の知遇を得ることになりました。

 明治31(1898)年、乃木希典の後をうけて児玉は第4代台湾総督となりました。このとき、後藤新平を民政長官として登用し、台湾開発に努めました。台湾は日清講和条約により日本が治めることとなりましたが、当時の台湾は治安が悪く、原住民を軍が支配していました。このため児玉は、台湾軍司令官として軍部をおさえ、後藤民政長官に民政への転換促進を任せたのです。

 児玉はこの間、陸軍大臣や内務大臣、文部大臣などを兼任し、本国にいることが多かったので、台湾統治の実権はほとんど後藤民政長官に任せきりでした。

 明治37(1904)年の日露戦争には満州軍総参謀長として出征しました。明晰な頭脳と臨機応変な手腕によって力量を発揮し、知将としての名声が高い人でした。

 明治39(1906)年、陸軍参謀総長となり、南満州鉄道創立委員長も兼任。後藤に満鉄総裁就任を説得しましたが、後藤はなかなか首を縦に振ろうとしません。その矢先、同年7月23日、児玉は就寝中の脳溢血により55歳で急逝しました。

 児玉の死去をうけ、後藤は満鉄総裁就任を受諾、同年11月初代総裁に就任しました。

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