長与 専斎(ながよ せんさい 1838-1902年)

更新日:2023年09月29日

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「衛生局」の名付け親で初代局長

立派な顎鬚を生やした長与 専斎の白黒写真

 長与専斎は、肥前国大村藩(長崎県)の長与中庵の嗣子として生まれました。長与の父は藩主の侍医で、祖父も掌薬医を務めました。4歳のとき父が亡くなり、のち9歳で祖父の養子となりました。

 安政元(1854)年、祖父の命に従い、大阪の緒方洪庵の適塾に入門し、オランダ語やオランダ医学を学び、同5年には福沢諭吉の後任として適塾の塾頭となりました。文久元(1861)年には長崎に赴き、蘭医ポンペの教えを受けました。

 明治3(1870)年、長与は長崎医学校(現在の長崎大)の大学少博士に任ぜられ東京に行きました。長与の見識と手腕が中央政府から認められたのです。翌年、欧米派遣使節団に加わり、先進国の医学教育と衛生制度を視察して明治6年に帰国。この時、衛生行政に関する最新の知識を持ち帰りました。

 明治6(1873)年、文部省に医務局が設けられ、長与は局長に就任しました。このことが日本衛生事業の発端となりました。当時日本には「衛生」という言葉がなく、長与が考案定着させた熟語です。明治8(1875)年、医務局が内務省に移管されるとき「衛生局」と改称し、初代局長に就任しました。局長在任19年、衛生局の歴史は長与の歴史でもあります。

 新平が愛知県で医術開業試験に合格し、長与局長から「医術開業免状」を授与されたのは明治10年、20歳のときでした。また長与は、新平が著した「健康警察医官設置等」の建言書に目をとめ、早速新平に衛生局に勤めるよう勧めました。新平はこれに応えて明治16(1883)年に就職し、衛生局照査係副長を命ぜられました。

 明治23(1890)年、新平はドイツに私費留学しました。その費用がかなりかかるので、意を決し2か年で800円を支給されるよう長与に手紙で要請、長与は新平の要望にできるだけ応えようと石黒にも相談しましたが、日本では海外留学中止の空気さえあったので手当支給は拒否されました。

 これらのいきさつにより長与は衛生局長を辞任し、後任に新平を推挙しました。帰国した新平は衛生局長に任命され、意気揚々として伝染病研究所設立などに手腕を振るいました。

 新平が衛生行政の第一人者となったのは、実に長与や石黒の恩と配慮によるところが大きかったのです。

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