石黒 忠悳(いしぐろ ただのり 1845-1941)

更新日:2023年09月29日

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日本の軍医制度を創設

胸に沢山の勲章を付けた石黒ただのりのモノクロ写真

 写真出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

 石黒忠悳は父の任地の福島梁川で生まれ、幼名を庸太郎といいました。元服後は忠恕、さらに忠徳と改め、後に徳の古字の「悳」を使い名を改めました。

 漢学を父から学び、17歳で家塾を開き書生を養成しました。元治元(1864)年、江戸へ出て整骨医の大家・名倉弥五郎につこうとしましたが、その示唆もあって、今後の医学は西洋医学でなければならないことを悟り、医家の柳見仙についてオランダ医学を学びました。

 明治2(1869)年、石黒は大学東校(後の東大医学部)に奉職しましたが、のち陸軍に転じ、明治10(1877)年の西南の役では大阪陸軍臨時病院長を命ぜられ、傷病兵の治療に当たりました。その間、アメリカに派遣されて南北戦争の研究調査を行い、それにより、戦時病院の組織や活動について造詣を深めました。

 その後日本軍医会の柱石となり、わが国の軍医制度の創設に尽くし、明治22(1889)年、陸軍軍医総監となりました。また、日本赤十字社の創設やその看護婦の養成に意を注ぎ、大正6(1917)年、第4代社長に就任しました。

 石黒が大阪陸軍臨時病院の院長となったことは、医学会でも大いに注目されました。当時新平は愛知県病院に勤めていましたが、この大阪陸軍臨時病院の成績が天下に知れ渡っていることに鑑み、石黒院長の門をたたいて外科治療の実地研究をしたいと申し出、傭医となりました。

 石黒が後藤新平の名を知ったのは明治7、8年頃。福島の須賀川医学校長・塩谷退蔵から「高野長英の親類で、すこぶる鋭敏な少年がいる」と聞いていました。また、名古屋師団軍医部長・横井信之からも、名古屋の医学校の新平は「頭脳明晰で成績抜群、後年必ずものになる」と聞いていました。

 数十人の患者を預かる医師として大阪陸軍臨時病院で働くこととなった新平は、石黒の指導によりその技量はさらに上達していきました。石黒は愛知県病院に復帰し病院長兼医学校長となった新平に内務省衛生局入りを勧めました。

 明治28(1895)年、日清戦争後の防疫対策として大検疫所設置を主唱したのが石黒であり、その時創設された臨時陸軍検疫部事務官長に就任したのが新平でした。新平は広島の似島など3か所に検疫所を設け、日清戦争の帰還兵23万人の検疫と687隻の船舶の消毒を実施、不眠不休で力闘し、これらをわずか3ヶ月で完了しました。

 この大規模な検疫事業は世界で初めて行われたもので、その成果についてドイツ皇帝・ウィルヘルム2世から激賞されました。

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