伊能 嘉矩(いのう かのり 1867-1925年)
台湾原住民の研究で成果のこす、民俗学の先駆者

〔台湾・阿里山登頂/後列左から二人目が後藤、前列左から五人目が伊能(帽子なし)〕
伊能嘉矩は南部藩支藩である遠野南部家の下級武士の子として生まれました。2歳にして早くも母の懐のなかで「赤壁之賦」を暗唱。父から漢学を、祖父等から中国の歴史や学問を学びました。
明治18(1885)年上京し、二松学舎に入学、翌年岩手師範学校に給費生として入学しましたが、明治22年に退学しました。その後は再び上京し、新聞雑誌の編集に従事しました。
明治26(1893)年、東京人類学会に入会し、坪井正五郎に就いて人類学を修め、「土俗学」の独立を提唱しました。この学問は後に「民俗学」として柳田国男に引き継がれ、集大成されていったのです。
明治28(1895)年、陸軍省雇員として台湾に渡り、台湾土語講習所でアタイヤル系土語などを学び、田代安定とともに台湾人類学会を設立して研究活動を始めました。
こうした科学としての人類学的方法によって、伊能は台湾原住民の実証的調査研究を現地への度重なるフィールドワークを通じて明らかにしていきました。
明治31(1898)年、後藤新平が台湾総督府民政長官に就任し、3年後の明治34年に後藤が会長を務める「臨時台湾旧慣調査会」が発足するや、伊能はその幹事として活躍し、本格的な踏査、研究を進めて多くの成果を上げ、それが台湾の人と産業を拓く施策に大いに生かされました。
明治39(1906)年に帰国後も台湾と郷土の歴史等を研究し、佐々木喜善を導き、大正14(1925)年、59歳で生涯を閉じました。
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更新日:2023年09月29日