後藤 和子(ごとう かずこ 1866-1918年)

更新日:2023年09月29日

ページID: 948

賢夫人、最大の理解者

紋付の着物を着て日本髪に紙を結って正面を向いている和子夫人の白黒写真

 安場保和の次女として生まれ、明治16(1883)年17歳のときに26歳の後藤新平と結婚しました。

 癇癪持ちで直情径行、矛盾撞着のかたまりのような新平との結婚生活は、姑に仕え、夫に仕え、まさしく賢夫人を絵に描いたような一生だったと言えるでしょう。

 新渡戸稲造は和子夫人のことを著作『偉人群像』のなかで次のように記しています。

 「厳格な古武士的家庭に教育を受け(中略)衣食に関する心掛け、身だしなみ、言葉づかいなど、一部始終両親の直接監督の下に鍛えられたから、あの喧しい後藤伯の夫人となっても、何の不足もなかった。殊に彼女の忍耐の力の偉大なることは、我輩度々目撃したことである。」

 新平の性格のすべてを理解し、受け止めて陰で支えながらも決して消極的な生き方ではなく、むしろ果敢に新平の生涯を共に生きてきた感を周囲の人に与えていたようです。

 「後藤男爵に良いところがあるとすれば、それは夫人の影響を受けたから。また夫人に悪いところがあるとすれば、それは後藤男爵の影響を受けたから」と冗談まじりよく言われたといいます。

 新平は満鉄総裁時代、結婚25周年を記念して和子夫人にねぎらいと感謝の気持ちを込めて欧米旅行をプレゼントしています。それは新平が自分の旅行などに同行させると政治がらみや視察旅行になってしまうという配慮から、新渡戸稲造夫人のメアリーが帰国する際に同行させてもらうということにしました。

 新平の棲霞詩艸には、「欧米漫遊中の和子に」という詩書きで次の和歌が残されています。

 「家に居ても旅にありてもかにかくと 明け暮れ妹を思いけるかな」 (補足)妹(いも)…男性が妻や恋人を親しんで呼ぶことば。

 大正7(1918)年、和子夫人は病により53歳(数え)で亡くなりました。

 徳富蘇峰は国民新聞紙上において、弔いの辞を記したのち、「後藤男爵は最上無二の好伴侶を失った」と言いました。

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