司馬 凌海(しば りょうかい 1839-1879年)

更新日:2023年09月29日

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語学の天才で奔放不羈の人、新平に裁判医学への目開かせる

漢字で文章が書かれている大きな紙を背景に着物姿で椅子に腰かけている司馬凌海の肖像画

 肖像出典:医学博士入澤達吉『司馬凌海傳』(中外醫事新報第一千百五十五號別刷 昭和五年一月二十五日発行)

 司馬凌海は、佐渡の半商半農の家に生まれ、本名を島倉亥之助といい、幼い頃から神童と謳われ、江戸に出て幕府の奥医師松本良甫の塾に入りました。

 しかし、天才と言われた一方で奔放な司馬は、幾度となく問題を起こして塾を辞めさせられます。やむなく下総佐倉の順天堂に学びますが、ここもやがてやめて佐渡へ帰ります。

 安政4年、知己の松本良順(後の軍医総監・松本順)が長崎の医学伝習所でオランダ医ポンぺから西洋医学を学ぶことになったとき、松本はかねてからその非凡な才能を認めていた司馬を呼び寄せ、長崎に帯同しました。その時司馬は19歳でした。司馬は、期待通り、神業とも言えるほどの上達ぶりで、ポンぺの講義を通訳しながら、自分はそれを漢文で筆記できるほどの力を持っていました。

 ウィリス、ミュラー、ホフマン、ヨングハンスら日本の近代医学の幕開けをしたお雇い教師の傍らには必ず司馬が影のように存在し、オランダ語・ドイツ語・フランス語・英語・中国語を操って彼らを補佐しました。

 明治の学問は翻訳から始まったと言われていますが、明治5年、司馬は日本最初の独和辞典を編集し、またドイツ語の塾を開いています。

 明治9年、司馬はローレッツの通訳兼医学教師として愛知県病院・医学校に赴任しました。ローレッツは「ウィーン医事新報」への寄稿文の中で、「私の通訳兼筆頭助手である司馬氏(中略)が薬局や手許にある薬品の点検や、ラテン語のラベルを貼る仕事を引き受けてくれた」と、司馬の仕事ぶりに触れています。

 明治9年8月、新平も愛知県病院三等医として勤めることになりましたが、名古屋へ到着してから1ヶ月ほどして司馬の塾に入り、そこから通勤することになりました。新平が司馬の塾にいたのは1年あまりですが、時々司馬の翻訳の口述筆記の手伝いをして10行20字、1枚1円50銭の原稿料から15銭ずつもらったりしています。新平も司馬のよどみない翻訳ぶりに驚きました。

 この時に衛生警察及び裁判医学の翻訳の手伝いをしたことが新平にこの分野への関心を向けさせ、ローレッツに働きかけてこの医学校に裁判医学の開講を見るに至ったのです。後年、新平が相馬事件に関わるようになったのは、この翻訳の手伝いと裁判医学・精神医学の勉強が根底にあったからです。

 司馬は明治10年4月まで愛知県病院・医学校に勤務したあと開業しました。私立の医学校と病院を設立する計画を持っていたようですが、肺病に罹り、わずか41歳で亡くなりました。

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