アルブレヒト・フォン・ローレッツ(Albrecht von Roretz 1846-1884年)

更新日:2023年09月29日

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お雇い外国人教師ローレッツ、新平との幸運な出会い

椅子に座っているローレッツと、ローレッツのすぐそばに立っている新平が写っている白黒写真

 新平20歳のころ、ローレッツとともに

 明治7年、ローレッツはオーストリア帝国領事館付き医官として28歳のとき来日しました。目的は博物学研究調査、特に自然科学の分野での観察、蒐集研究にあったらしく、4ヶ月にわたり西日本各地を探検旅行して日本語の習得に努めるとともに、紀行文や収集品を残しています。

 明治8年、横浜で開業。翌9年愛知県病院での指導監督と付設医学校での教育のため招聘されます。同年5月着任しますが、ポストは顧問格(月給300円、県知事以上の高給)で、4年間これらの基盤作りに貢献しました。

 就任した年は、愛知県がドイツ医学を採用し、県令・安場保和のもと洋式病院、医学校の新築に着手した年でもあります。

 ローレッツが導入したものは、もう一つのドイツ医学ともいうべき新ウィーン学派であり、近代医学の一時期を画するものでした。当時は日本的な塾や藩校的教育が色濃く残っており、ほとんどの医学校においては原書の素読や便覧書、外国人教師の知識の断片を得て満足している状況でした。西洋医学を導入しようにも、当時日本では近代教育の体系全てが未確立であったため、ローレッツのみならず他の外国人教師にとっても医学教育は誠に困難きわまる大事業であったと思われます。

 明治9年、愛知県病院三等医(月給10円)として勤務し始めた後藤新平は、ローレッツのもとで、まさに西洋近代医学に直に触れたと言えます。新ウィーン学派の特徴とは自然科学の成果とその実験的手法を医学に直結させた実証的研究と、近代の名にふさわしい科学的姿勢とに象徴されますが、新平はそれを着実に自分のものにしていったようです。当時の医学教育と医学生の質に少なからず失望を覚えていたらしいローレッツにとり、新平との出会いは大きな喜びであったろうと思われます。

 ローレッツは公立医学校を実質的には教頭として主宰しながら、新ウィーン学派の衛生行政思想に基き愛知県の衛生行政を指導し、住民周囲の不健康な環境を行政によって改善すべきことを説き、新平を衛生行政のスペシャリストにするよう育みました。新平が大阪陸軍臨時病院勤務のあと名古屋鎮台病院に引き抜かれた際、病院長に掛け合い「日本のため、日本の医学界のために立派な医者を養成して、公益を将来に期すためには後藤君しかいない」と連れ戻しています。

 また、過労で肺病にかかった新平を転地療養させ、その診療はもちろん、洋食を食べさせるなど健康回復に努めて新平を感動させています。そして、任期満了後には、次の任地である金沢医学校への同行を促したほどです。

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