奥州市の歴史:全ての歴史を紐解く

更新日:2023年09月29日

ページID: 3980

原始(旧石器・縄文・弥生・古墳時代)

旧石器時代は寒冷な気候で、当時の東北地方はコメツガ、トドマツ、カラマツ、トウヒなどの針葉樹を主体とする森林が広がり、その森にはバイソン(ハナイズミモリウシ)やオオツノジカなどが生息していました。奥州市でも上萩森遺跡や生母宿遺跡から尖頭器やナイフ形石器などの遺物が出土していることから、狩猟生活を中心としていた旧石器人が獲物を捕らえ、石器を使って肉を解体したり、皮や骨を加工していたようです。

縄文時代に入るころには気候が温暖になり、落葉広葉樹を主体とする現在とほぼ同じような植生となります。縄文人の獲物もニホンジカやイノシシが中心となり、木の実や果実、芋など自然の豊かな恵みを取り入れた狩猟採集の暮らしとなりました。奥州市では縄文時代早期から晩期まで多くの遺跡が発見されています。中でも胆沢扇状地のほぼ扇頂部に位置する前期後葉の環状集落「大清水上遺跡」は縄文時代の集落の変遷を示す重要な遺跡として国史跡に指定されています。後期から晩期には北上川に面した杉の堂遺跡など低地にも遺跡が作られるようになります。

弥生時代には、東北地方にも稲作が伝わりました。奥州市でも常盤広町遺跡や兎2遺跡から籾跡のついた土器が発見されているほか、清水下遺跡などから稲刈に用いた「石庖丁」(岩手県有形文化財)が発見されており、稲作農耕を中心とする社会が成立したことを示しています。

古墳時代の5世紀後半には、日本最北端の前方後円墳である「角塚古墳」(国史跡)が作られました。中半入遺跡から古墳時代の大規模な集落跡も発見されており、大和王権との密接な関係が伺えます。

古代1(奈良時代~平安時代初期)

7世紀中頃、大化の改新により、天皇を中心とする律令国家の建設が始まり、8世紀初頭には大宝律令が制定されます。しかし、国家の認識は「山海二道(山道・海道)の果て賊奴の奥区」[続日本紀]であり、岩手県をはじめとする北東北地方は国家の領域に含まれていませんでした。

現在の奥州市にあたる「胆沢」の地名が史料に現れるのは、宝亀7年(776)のことで、続日本紀に「陸奥の軍三千人を発して、胆沢の賊を伐つ」とあります。胆沢は蝦夷の住む辺境地域として位置づけられ、以後、朝廷は3回にわたって胆沢遠征を行い、征服を試みています。その1回目は延暦8年(789)のことで、朝廷軍は阿弖流為らの率いる蝦夷連合軍に敗れましたが、2回目からは坂上田村麻呂を征夷大将軍とした朝廷軍が勝利しました。

延暦21年(802)に阿弖流為と母礼が降伏し、田村麻呂によって胆沢城が造営されると、延暦23年(804)には胆沢郡が建てられ、胆沢の地は律令国家に取り込まれることになりました。

胆沢城は、大同3年(808)に陸奥国府多賀城から鎮守府が移されると、およそ150年にわたって古代東北経営の拠点として機能したと考えられており、現在では「胆沢城跡」として国史跡に指定されています。

なお、江刺郡は胆沢郡から分立したとされ、続日本後紀の承和8年(841)の条に初見されます。

古代2(平安時代中期~後期)

平安時代中期になると、朝廷の支配体制は律令制から王朝国家体制に転換します。郡の長である郡司による在地支配の秩序が変質していく中、新勢力を形成したのが奥六郡の南境にあたる衣川に本拠地を置く安倍氏でした。

安倍氏は11世紀の初め頃には「六箇郡の司」として公的な地位を得て奥六郡を事実上領地化していましたが、全盛期の安倍頼良(後に頼時と改名)の時、奥六郡の南関であった衣川を越えて南方に進出したとして朝廷と対立します。前九年合戦(1051~62)と呼ばれるこの争いは、はじめ安倍氏有利と思われましたが、源頼義が出羽国の清原氏の力を借りて反撃したことで形勢が逆転し、安倍氏は滅びてしまいます。

安倍頼時の娘を妻としていた藤原経清も安倍氏側に荷担したとして頼義の恨みをかい、残酷に殺されましたが、経清の妻は7歳になる清衡を連れて清原氏の嫡子である武貞と再婚しています。やがて、清原氏の内紛である後三年合戦(1083~87)がおこると、清衡は新しく陸奥国守として赴任した源義家の協力を得て勝利し、陸奥出羽両国の覇権を握ることになりました。

清衡は父経清の姓である藤原に姓を戻して奥州藤原氏の初代となり、江刺郡豊田館から平泉に本拠を移し、中尊寺を中心とする都市の建設を推進しています。この「都市平泉」は、「柳之御所・平泉遺跡群」として国史跡に指定されている白鳥舘遺跡や接待館遺跡の発掘により、胆沢郡にも広がっていたことが確認されており、奥六郡の境であった衣川を越え、白河以北の多賀国府の管轄領域を含む東北全域に清衡の権限が及んだことを示しています。

奥州藤原氏による治世は基衡、秀衡と続きましたが、文治5年(1189)、四代泰衡のとき、鎌倉幕府を開いた源頼朝によって滅ぼされています(奥州合戦)。

中世(平安末期~安土桃山時代)

奥州合戦に勝利した源頼朝は、文治5年(1189)9月に鎮守府の故地において「吉書始」の儀式を行い、軍功のあった家臣を郡・郷・荘園などの地頭職に任命して奥羽を鎌倉幕府の直轄支配下におきました。吾妻鏡によれば、胆沢・磐井・牡鹿郡以下数ヶ所を鎌倉御家人の葛西清重が拝領しており、この中に江刺郡も含まれていたと考えられます。

清重は、同時に奥州総奉行・検非違使に任命され、奥州御家人の指揮に当たっていますが、所領管理には葛西氏の家臣団があたりました。このうち、葛西氏の有力家人であった柏山氏が胆沢郡を、江刺氏が江刺郡を領していますが、両氏とも譜代の家臣を小領主として各地に配置して所領を治め、次第に在地領主化していきます。

なお、文治6年(1190)に陸奥国留守職が多賀城に設置され、伊沢家景(後の留守氏)が任命されていますが、江戸時代の水沢領主の先祖に当たります。 葛西清重の職務が軍治長官にあたるのに対し、留守氏の職務は民政長官にあたるものでした。

南北朝が統一した応永7年(1400)、室町幕府は大崎満持を奥州探題に任じました。 これにより、葛西氏は本拠地を平泉から牡鹿郡に移すこととなりましたが、在地領主化した柏山氏と江刺氏は独自の勢力を保ち、主家である葛西氏以上の勢力を持つようになります。そのため、葛西領内で反乱や内乱が続発し、天正17年(1589)の豊臣秀吉による小田原征伐に葛西・柏山・江刺の各氏は参加することができませんでした。

翌年、秀吉は奥州仕置を行い、小田原不参加の諸氏を追放します。400年に及んだ奥州の中世は葛西氏とともに始まり、終わりました。

近世(江戸時代)

豊臣秀吉による全国制覇のなか、東北地方で力をつけていた伊達政宗は、天正18年(1590)に葛西氏と大崎氏の旧領でおこった一揆を平定した功績により、その旧領12郡をも手に入れ、名実ともに東北の覇者となりました。江戸幕府は一国一城を原則としましたが、仙台藩は仙台城と白石城の2城が認められていたほか、政治的・地理的重要性などに応じて要害・所・在所を各地に置いています。要害の多くは中世城館を継承したもので、要所には重臣が配されました。

南部氏の領地との境となる胆沢郡と江刺郡には、北方警護の軍事的拠点として5つの要害と2つの所が置かれ、元和2年(1616)には金ヶ崎要害に一門の伊達宗利(旧姓留守)が移封されています。宗利は寛永6年(1629)に水沢要害に転封となり、万治2年(1659)には岩谷堂要害に同じく一門の岩城宗規が配置されたほか、人首要害には一族の沼辺重仲、宗利転封後の金ヶ崎要害にも一族の大町定頼が入部。前沢と野手崎の所にはそれぞれ一門の三沢氏と一家の小梁川氏が配されました。これらの要害や所の周囲には小城下町が形成されてゆきます。

政宗は新田の開発を積極的に行い、年貢米の余剰分を農民から買い上げて江戸に廻米することで藩財政の基盤を築きました。その米は本石米と呼ばれ、江戸の消費米のほぼ半ばを占めていたといいます。当地方は後藤寿庵による寿安堰の開削などにより、胆沢扇状地の開田が進められたことで、仙台藩屈指の穀倉地帯となりました。北上川を挟む胆沢郡と江刺郡の間の水域は上川と呼ばれ、舟運で栄えた要所の河港には御蔵が設けられていました。

また、仙台藩は代々の藩主の好学の気風により学問が奨励されていました。文政5年(1822)、養賢堂から分離設置された仙台藩医学校において、わが国初の西洋医学講座が実施されたことは、大槻玄沢、大槻玄幹、佐々木中沢、そして水沢出身の高野長英や箕作省吾など著名な蘭学者が仙台藩から輩出されたことと無縁ではありません。藩内各所にも学問所(郷学)が開設され、水沢に「立生館」、前沢に「進脩館」、岩谷堂には「比賢館」、そして金ヶ崎には「明興館」があり、多くの人材が輩出されています。

近代(明治時代~昭和初期)

慶応3年(1867)の大政奉還により江戸幕府が倒れると東北地方は翌年から始まる戊辰戦争に巻き込まれていきます。仙台藩は奥羽越列藩同盟に加わり新政府軍と戦いましたが敗北し、62万石から28万石に減封されます。胆沢郡と江刺郡は没収地として新政府の直轄地となり、数回にわたる行政区画の変更の末、明治9年(1876)に岩手県に編入されました。その過程で明治2年(1869)、水沢に胆沢県庁が置かれた際、役人付の給仕として採用されていた後藤新平、齋藤實らが大参事安場保和、小参事嘉悦氏房ら熊本を中心とする政府役人に見いだされます。後藤新平は逓信大臣や鉄道院総裁を歴任した後、東京市長に就任したほか、関東大震災後の大正12年(1923)には帝都復興院総裁となり、現在の東京のインフラの基盤を築きました。齋藤實は凶弾に倒れた犬養毅の跡を継いで昭和7年(1932)に第30代内閣総理大臣に就任し、昭和恐慌克服のため「自力更生」を提唱、挙国一致内閣を組織しています。

この地域の産業の基本は農業であり、明治維新後も新田開発が行われたほか、養蚕や馬の育成などに力が注がれました。東北地方を巡幸中の明治天皇の目にとまり御料馬となった金華山号は、水沢の大林寺で飼養されていた南部馬です。特産の漁網や鋳物は以前から名声を博していましたが、明治23年(1890)に仙台~盛岡間の鉄道が開通し、大正2年(1913)には水沢~岩谷堂間に鉄道馬車、その数年後には定期バスが運行するなどしたことで運送業と倉庫業が発達し、商業も盛んになりました。このような産業構造は現代へと引き継がれています。

この記事に関するお問い合わせ先

歴史遺産課 企画管理係
〒023-1192岩手県奥州市江刺大通り1-8(江刺総合支所4階)
電話番号:0197-34-1315
ファックス:0197-35-7551
メールでのお問い合わせ
みなさまのご意見をお聞かせください
このページの内容は分かりやすかったですか
このページは見つけやすかったですか