8.牢屋火災、長英脱出
41才 1844(弘化元)年
1844年、牢屋火災で長英は解き放される。3日以内に戻るという掟を破り、長英はそのまま行方をくらます。脱獄をにおわす「角筆詩文」の検討などから、長英の計画的脱走説がある。

投獄されて5年あまり過ぎた弘化元(1844)年6月30日、長英は小伝馬町牢屋敷の火災で牢から解き放され、そのまま逃亡した。1ヶ月後の8月1日に新潟県直江津で出された長英の手配書は次のように伝えている。
「右の者、江戸表において不届きの儀これあり永牢仰せ付けられまかりあり候処、当六月晦日、牢屋敷出火の節、控の趣仰せられ後、切り放しあい成り候処、その後立ち帰り申さず」
この牢屋敷の火災が偶然発生したのか、長英が脱走のために放火させたものか古くから議論があった。
高野長運は、『高野長英傳』のなかで、放火説を否定したが、この後、南和男によって放火説を補強する幕府関係の資料が紹介されてきた。
捕らえられた栄蔵が高野長英から頼まれて放火したと申し立てたことは既に知られていた(静嘉堂所蔵色川三中旧蔵本の嘉永3年(1850年)11月「高野長英御裁許書」)。南和男は、旧幕府の引き継ぎ書類の「嘉永撰要類集二十一、牢屋鋪之部」(国会図書館所蔵)の資料から長英放火説を強調する。このうち、弘化3年(1846年)5月の南町奉行所吟味方与力上申書(牢屋敷御取締之儀ニ付勘弁仕候趣申上候書付)では、5月18日に処罰された非人の栄蔵儀が、永牢の長英とぐるになって牢屋敷へ放火した」、「弘化元年6月中に、長英から頼まれ、火道具などを隠し持って、夜中に用事があるふうをよそおい表門から入り、御據場わきへ付け火した」とする火災の一件を伝えている。
また、火災が6月30日午前2時、長英が入っていた百姓牢近くの御様(おためし)物置から発生したことが判明する。(「天保十五年六月廿九日夜八時過牢屋敷御様物置所出火ニ付書留」)
なお、処刑された死体を試し切りする御様場(おんためしば)の隣に百姓牢があり、この付属の物置から放火した場合、百姓牢の囚人が真っ先に開放されることになる
以上の資料は、弘化元(1844)年6月30日未明に非人栄蔵が百姓牢近くの物置に放火したことが火災の原因であり、奉行所が、弘化3(1846)年5月18日に処罰された栄蔵の「高野長英より頼まれ付け火致し候」という申し立てを放火理由としたことを物語っている。栄蔵の言い分が真実かどうか追究することはできないが、逃亡する前年の天保14(1843)年の放免への期待と落胆のなかにあった長英の姿には、脱獄にかけるしかない長英の真情を見ることができる。
天保14年4月の将軍の日光参拝に期待をかけた長英だったが、放免はなかった。
さらに、この年閏9月に水野忠邦が失脚し、長英は再度放免への期待を強くし、「萬国地理書」百巻の翻訳や人足寄場の病人治療を願いで、仙台藩での身柄引き取り運動に期待をかけていた。
しかし、この願いはまたもや叶わず、茂木恭一郎と米吉に手紙を送った。茂木恭一郎には、手紙と一緒に「獄中角筆詩文」を添えた。一見すると白紙にしか見えない「伏せ字」の形をとってこの詩文をわざわざ送った長英の意図はどこにあるのか。同封の手紙が筆で書かれており、筆が無かったことを理由とすることはできない。「時がきた。我が苦慮のひとつを表す。」の文字は、栄蔵を使った放火をこの時点で計画したかは別にして、長英の脱獄の意志を伝えたものと考えられる。
なお、長英にとって最悪な状況として、弘化元年6月21日に、鳥居耀蔵を登用した水野忠邦が老中に再任され、その9日後の6月30日に長英は逃亡を図ったのである。
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更新日:2023年09月29日