10.黒船の予感、宇和島の長英

更新日:2023年09月29日

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45才~46才 1848(嘉永元)年~1849(嘉永2)年

アヘン戦争が勃発。世界の情勢は揺れ動いていた。
長英は、宇和島藩主伊達宗城にこわれ、宇和島に潜伏しながら、兵書の翻訳や砲台の設計を行う。だが、長英の宇和島潜伏は長くは続かなかった。

薄暗い室内の、窓から日が入る所に置かれた机に向かい、筆を持つ高野長英のイラスト

天保13年6月、長崎に入港したオランダ船が、アヘン戦争終結後にイギリスが日本に艦隊を派遣して開国を迫るという情報を伝えた。幕府は異国船打払令を撤廃、海防強化を発布、諸藩に西洋砲術の採用による軍備の充実を促す。このなかで、宇和島藩は、藩士に高島流砲術を学ばせ、弘化元年に藩主となった伊達宗城(だてむねなり)は大砲の鋳造を行い、藩士に西洋砲術を奨励していた。ついで弘化3年、伊達宗城は幕府から10種の兵学関係蘭書136冊と鍋島藩の蘭文兵書6種を借用し筆写させた。このなかに、幕府が高島秋帆から没収した蘭書も含まれていた。
宇和島藩では、これらの兵学蘭書の翻訳と海岸防備を進めるための人材を確保する必要があり、江戸に潜伏していた長英を招いたのである。

この間の事情は、伊達宗城の側近の松根図書(まつねずしょ)が明治維新後に宗城に提出した口上書によると、次の様なものであった。

内田弥太郎との話し中に長英のことに触れたところ、極秘であるが長英は健在で麻布藪下に住んでいることを聞いた。密かに居所を探したがわからなかった。ある日、弥太郎の家で酒をくみかわしていたところ、来客があった。この者について長英であると宗城に話したところ、宇和島に招く内命があった。

宇和島伊達文庫に、弘化4年4月下旬付の長英の序文がある『知彼一助』が残されている。ヨーロッパの軍備財政などの研究書で日本の国防要論も述べた長英自筆の著書で、宗城と長英の接触を示す資料ともいわれる。

嘉永元年2月29日、伊達宗城に乞われた長英は、出羽出身の蘭学者伊東瑞渓(いとうずいけい)と名を変えて、宇和島藩医の富澤禮中に同行して江戸を発ち、4月2日未明、宇和島に到着した。長英の護衛役として昌次郎が従っていた。町会所でしばらく過ごした後、家老桜田佐渡の別宅が長英の宿舎にあてられ、下男の新吉と下女のトヨが長英の世話にあたった。しかし、宇和島藩の待遇は4人扶持の俸禄と翻訳料で、長英の生活は苦しかったようである。特に、江戸に残してきた妻子に長英は生活費を送っていたようで、富澤禮中の書簡には、江戸への送金に困っている長英を見かねた禮中が藩に金10両の前渡しを要請したことが見えている。

長英を迎えた宇和島藩は、谷依中、土居直三郎、大野昌三郎の3名に蘭学修業の命令を下し、後に、斎藤丈蔵なども加え長英のもとで勉強させた。また、長英とともにシーボルトに学んだ二宮敬作が卯之町に蘭方医を開業していたが、その子の二宮逸二も内弟子として長英に学んだ。

長英の授業はオランダ語の勉強が中心で、長英が定めた「学則」にその様子が見られる。長英は、「朝にこれを習い、夕にこれを声をあげて読む。心をこめ思いを積めば、すなわち鬼神もまさに通せんとす。何の書か解すべからざらんや。学者、ただすべからく黽勉(びんべん 努力の意)の二字を守るべし。」と、毎日午前8時から正午までは長英の授業があり、正午から夜は各自の復習と翻訳にあたらせた。自らは翻訳の作業にかかる。

嘉永元年11月頃に宇和島で書かれたと推定されている、長英の訳本著作解説が高野長英記念館に保管されている。「訳著書解題」といわれるもので、「西洋歩兵教練法 図付」、「三兵タクチーキ」、「砲家必読」、「新制鉄砲溶鋳法」、「旁訳洋文解」の翻訳にあたったことがわかるが、「砲家必読」以外は翻訳途中であり、「旁訳洋文解」にはまだ着手されていなかった。

海岸防備の砲台築造計画に伴いオランダの「砲台学入門」の翻訳である「砲家必読」が最初に進められたようで、長英は、嘉永元年の11月、砲台築造調査の一行に参加している。この砲台は、長英の宇和島滞在中には完成しなかったが、長英設計の「御庄砲台設計図」が伊達文庫に残されている。
なお、「旁訳洋文解」は英語とフランス語学習の手引書と思われるもので、長英の洋学研究姿勢がオランダ語以外の原書にも向いたものとして興味深い。

一方、長英の宇和島での生活は、「日頃気分がふさぎ、寝食を安らかに出来ないような様子であった。夜中に安眠できず、わずかに酒に酔って睡眠を求めた。酒を飲むことは極めて甚だしく、三度の食事に飲み、夜また飲み、常に酒気を帯びていた。一昼夜に三升を飲みつくすという。」と、門人の土居直三郎の言として伝えられている。

日本を取り巻く情勢は、長英が「夢物語」のなかで憂慮したごとく、中国とイギリスのアヘン戦争、そして外国船の来航と緊迫度を増していた。だが、幕府に追われる長英にとって、日本随一の蘭学者として活躍する場所はない。兵書の翻訳がわずかな仕事であり、経済的にも困窮した長英のいらだちを伝えているものと思われる。

この長英の宇和島潜行は長くは続かなかった。嘉永2年の春、1年あまりを過ごした宇和島を長英は後にした。江戸から、幕府が長英の宇和島潜伏を疑っているとする知らせが、早飛脚によってもたらされ、1月の初め、宇和島藩は急いで長英を旅立たせたのである。

この時、長英は「宇和島に来るにあたって伊達家をあざむいたもので、万一、幕府から尋ねられても、伊達家は長英の本名を知らなかった」という証書を残し、50両、あるいは200両の旅費が出されたと伝える記録もある。
宇和島を旅立った長英は、途中、卯之町の二宮敬作を訪ね、広島に逃れ、その後、伴の昌次郎が怪我をしたため5月下旬に再び卯之町を訪ね、6月の中頃に宇和島潜行の旅に終止符をうち、大阪に向け旅立った。

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