12.長英の最期、夜明けは近い
47才 1850(嘉永3)年
1850年10月30日、隠れ家を幕府の役人におそわれた長英は、47才の生涯をとじる。
ペリーが浦賀に来航し、日本が開国するわずか4年前のことであった。
(補足)ペリー来航は1853年。翌年開国。

江戸に再潜伏して1年あまり、長英はついに捕まり自殺して果てた。外国船の来航、諸外国からの開国要求のなか、鎖国政策をめぐって幕府が混迷を深める真っ只中であった。そして、明治維新にむけた激動の幕末が大きく動き出そうとした時期であり、まさに長英が描こうとした日本の夜明けを前に、長英は西洋の実証主義的な学問研究を活かすことなく歴史のうねりの中に散った。
高野長運著『高野長英傳』が紹介する2通の「高野長英御裁許書」写しは、長英の最後を次の様に伝える。
高野長英こと澤三伯、青山百人町の同心組屋敷、小島助次郎の借家に住んでいたところへ、10月30日の夜、南奉行所の定廻り、臨時廻り、隠密廻りが踏込み召し捕らえた。この時、配下の者3人に手傷を負わせ逃げようとしたので押掛け取押さえたが、長英は持っていた脇差で喉を突いた。ねじりとったが重傷だったので、役所へ召し連れた後、亡くなった。
そして、長英の妻ゆき満38歳、娘のもと10歳、息子の融3歳と理三郎0歳、の母子4人が投獄された。また、松下壽酔と息子の健作、宮野信四郎(宮城信四郎の誤記か)、御賄伊藤弥十郎の祖母ひでに遠島が言い渡されたとされるが、長英の世話をしたと考えられる内田弥太郎などの名前は見えない。
ところで、長英が「去歳(天保10(1839)年)の冬、亡家の女を娶れる」と『鳥の鳴聲』で述べた妻の「ゆき」について、伊藤圭介はその手記で青地宗林の娘とし、大槻文彦は「高野長英行状逸話」で江戸深川の芸妓としているが定かではない。長女の「もと」についても、大槻は後に吉原に売られ娼妓となり、安政2(1855)年10月の江戸大地震で死んだと語るが、真偽は定かでない。
長英死亡の知らせは、郷里にも伝えられ、前沢の茂木恭一郎と水沢の親戚筋に宛てられた手紙が残っている。伊達一門の前沢三沢氏の家臣である樋口源吾は、茂木恭一郎に「長英は沢なにがしと名乗り、妻のゆきと同居していたところを、10月晦日に召し捕えられ、立ち向かい自殺した。ほかに3~4人召し捕らえられたようだ」と簡単に知らせている。
これに対し、日付、差出人とも書かれていない水沢への知らせは、詳細な報告である。長英は絵師に姿を変えていたこと、喉を突き刺したが、後から抱きかかえられ、傷が浅かったので、舌を食い切り、番所まで運ばれて亡くなった、妻子は直ちに牢に入れられた、子供は女の子3人で、一人は9月に生れたばかりだった、長英の死骸は塩漬けにされた、と伝えている。
ロシア使節レザノフの長崎来航の年、文化元(1804)年、高野長英は誕生した。その後、長英は鎖国の時代が求めた蘭学者として数奇な人生を送り、日本の夜明けを前に、嘉永3(1850)年10月30日、この世を去った。時に、数え年47歳。ペリーが浦賀に来航し、日本が開国する4年前のことであった。
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更新日:2023年09月29日