1.高野家へ、学問との出合い
1才~17才 1804(文化元)年~1820(文政3)年
1804年、仙台藩水沢留守家の家臣後藤実慶の三男として生まれる。
9才で父を亡くし母親美也の実家にもどり、伯父高野玄斎の養子となる。
養父も祖父も医者である高野家での生活が、少年長英に蘭方医学への興味をいだかせた。

文化元(1804)年、日本の夜明けをリードした蘭学者、高野長英は仙台藩水沢留守家16,000石の城下に生まれた。父は留守家の家臣、後藤惣介実慶で、高野家から後妻として迎えられた美也との間に兄の湛斎、長英、弟の慶蔵が誕生したが、後藤家には、先妻の子で長男の勇吉がすでに誕生していたため、長英は後藤家の三男であった。幼名は悦三郎、実名を譲(ゆずる)といい、はじめは卿斎(きょうさい)、江戸に出てから長英と名乗った。
長英が数え年9歳のとき、父の惣介はこの世を去り、22歳の勇吉が後藤家を継いだ。母は長英と慶蔵をつれて実家の高野家にもどったといわれる。
その後、長英は母の兄である高野玄斎の養子となり、玄斎の一人娘の千越(ちお)と婚約する。養子となる長英の年齢は、10歳、あるいは14歳と伝えられるが定かではない。
当時、高野家には祖父元端と養父の玄斎夫妻、そして婚約者の千越がいた。祖父の元端は、京都で漢方医学を勉強して医者となった人で、当時は隠居し、東山の興田で塾を開いていた。養父の玄斎は、大槻玄澤などとともに、杉田玄白の塾「天真楼」(てんしんろう)で蘭方医学を学んだ医者であった。また、前沢茂木家の養子となった左馬之助(さまのすけ)も京都の医師吉益周助に学んだ医師で、高野家は医者、学問の一家であった。
水沢での少年時代、長英は祖父の元端、養父の玄斎、そして留守家医師の坂野長安から学問の手ほどきを受けたといわれる。特に、祖父元端の影響が大きく、東山興田の塾も手伝い、元端の代わりに講義をしたともいわれている。この高野家で暮らした環境が、多感な少年長英に蘭方医学や蘭学の息吹を感じさせ、大きな興味を掻き立てていったと思われる。
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更新日:2023年09月29日