3.シーボルトを慕い、長崎へ

更新日:2023年09月29日

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22才~25才 1825(文政8)年~1828(文政11)年

1825年、長英に長崎行きの機会が訪れる。長崎にとどまった長英は、鳴滝塾でシーボルトから蘭学を学び、ドクトルの称号をもらう。
この時代に蘭学者高野長英がつくられた。

夜の暗い室内で、ろうそくの明かりを頼りに、小さな机に向かって筆を持ち、勉強に励んでいる高野長英のイラスト

文政6(1823)年、ドイツの医学者シーボルトがオランダ商館の医師として長崎に到着した。文政11(1828)年の帰国までの6年あまり、シーボルトは日本の動植物、歴史、言語などを研究するとともに、鳴滝塾を開いて高野長英などに蘭学、蘭方医学を教え、日本の蘭学研究に大きな影響を与えた。

鎖国の江戸時代、オランダ商館があった長崎は、日本と外国を結ぶ唯一の窓口で、蘭学、蘭方医学のメッカとなっていた。そこにシーボルトが来日し、長崎の医師や留学している蘭学書生に西洋医学や蘭学を教えることが初めて許された。その噂は諸国に広まり、シーボルトの教えを求めて長崎に留学する者が後を絶たなかった。そして、高野長英にも大きな転機がおとずれ、シーボルトとの出会いが蘭学者高野長英を誕生させる。

ただし、長英の長崎留学は簡単に実現したわけではなかった。長英には長崎に知人もなく、留学費用のあてもなかった。そこで、吉田塾の先輩の駒留正見に相談し、「江戸での勉学1年はいわゆる畳の上の兵法、長崎の勉強半年は真剣勝負、この二つのいずれが西洋医学を会得するうえでの早道か」と長崎留学を進められ、留学費用を借金して長崎に旅立った。高野家へ借金の依頼をしている様子などが、長英の手紙からうかがわれる。

長崎に着いてわずかの間に、長英は鳴滝塾に入り、シーボルトの内弟子となっていたようである。オランダとの貿易や外交を担当する大通詞(だいつうじ゛)で長英が身を寄せた今村直四郎の計らいや長英の語学力が大きな力となったと考えられている。

高野長英をはじめとする門人は、シーボルトの日本研究を助ける助手として食住が保証され、蘭学、蘭方医学を教わった。

シーボルトが持ち帰ったシーボルト文書の中に、門人が提出したオランダ語論文42点が残されている。高野長英の論文は42点のうち11点を占め、突出している。他には伊藤圭介、鈴木周一、石井宗謙、岡研介、戸塚静海、桂川甫賢、美馬順三、クマヤ、良雄権之助、高良斎、吉雄忠次郎の名前が知られている。

長英の論文は、「活花の技法について」、「日本婦人の礼儀および婦人の化粧ならびに結婚風習について」、「小野蘭山『飲膳摘要』(日本人の食べ物の百科全集)」、「日本に於ける茶樹の栽培と茶の製法」、「日本古代史断片」、「都における寺と神社の記述」、「琉球に関する記述(新井白石『南島志』抄訳)などで、日本の歴史、地理、風俗、産業などシーボルトの日本研究の基礎資料となるものであった。

シーボルトは、研究資料の収集を目的に門人に卒業論文ともいうべき課題をあたえ、「ドクトル」の称号を与えた。長英は「鯨魚及び捕鯨に就きて」の論文でドクトルを与えられた。また、長崎留学時代、平戸藩松浦侯の所蔵する蘭書20冊あまりを1年で翻訳したと養父玄斎宛ての手紙で伝えているが、現在それらは残されていない。

この長崎留学時代、長英のオランダ語力は、飛躍的に伸び、シーボルトの指導のもとに本格的な蘭学研究が進められ、蘭学者高野長英を生み出した。

一方、長英の勉学を金銭的に支え、半年の長崎留学ののち帰郷すると約束されていた養父玄斎は、文政10(1827)年7月20日、帰らぬ人となった。
翌年春、長英は水沢からの使者により、養父の死をを知るが、長崎に借財が多いことなどを理由に帰郷を延ばし、前沢の叔父、茂木左馬之助への手紙で養父の一周忌までには帰郷すると約束するが、約束はまたも果たされなかった。

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