5.町医者高野長英の誕生
27才~36才 1830(天保元)年~1839(天保10)年
江戸に戻った長英は武士の身分を捨てる(故郷水沢へ戻らないことを決めた)。
1830年頃、麹町に「大観堂」を開き、町医者として蘭学の研究に励む。このとき、『医原枢要』や『二物考』など多くの本を書いた。

文政11(1828)年、長英はシーボルト事件により長崎を離れた。その後、熊本から京都まで診療と蘭学講義の旅を2年あまり続け、天保元(1830)年10月26日に江戸に戻った。6年ぶりに江戸に戻った長英は、麹町貝坂で医者を開業し、蘭学塾「大観堂」を開く。武士を捨て、蘭学者としての道を選んだ町医者長英、27歳の出発であった。
水沢では、留守家臣の斎藤太右ヱ門の息子の元恭(げんきょう)と千越を結婚させ高野家を継がせることになった。しかし、元恭は結婚を前に行方をくらましてしまう。このため、長英の帰郷が再び催促されるが、当然のこと長英は拒否する。
不憫(ふびん)な千越に手紙をしたためる長英ではあったが、すでに帰郷の意志はなく、「おまえは今は表向きは娘の事」、「この上はまたまたよき人をもらい、あとかた良きよういたしたく」と因果を含めている。
高野家の家督相続問題には大変な苦労があった。逃げ出した元恭を長英の家督にした後、病気を理由に隠居させた。そして、東磐井郡矢越村佐々木兵右衛門の長男である東栄に家督を相続させる複雑な手続きがとられている。
江戸に帰った長英は、高野家の相続問題や破門した弟子の不始末の処理にあたりながらも、蘭方医学の研究に没頭し、天保3(1832)年11月には日本最初の体系的生理学書として有名な『医原枢要』(いげんすうよう)を著す。フランスのド・ラ・フェイ、ドイツのブルーメンバハとローゼの著書のオランダ語本をもとに長英が体系付けたもので、医学にとっていかに生理学が重要かを述べている。
また、この時代の長英は、医学から飢饉に備える『二物考』まで多くの著述を残し、精力的な活動を続けた。自立した長英の最も充実した時代ともいえ、遠藤勝助が主宰する尚歯会にも参加していた。
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更新日:2023年09月29日