7.捕らえられた長英

更新日:2023年09月29日

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36才~41才 1839(天保10)年~1844(弘化元)年

長英は永牢(無期懲役)となり、牢屋から無実を訴える。
何度か赦免を願うが、放免の願いは叶わなかった。

白い着物を着て縄を打たれた高野長英が、2人の役人に連れられ、小さな入口を通って牢に入ろうとしている様子のイラスト

天保10(1839)年5月14日、渡辺崋山に幕府から召喚状が届く。このころ世間には、蘭学者取り調べの噂が立ち、崋山は長英を呼んで相談していたところであった。崋山と別れた長英は、御使番の下曾根金三郎(町奉行筒井紀伊守の次男)の家で様子を見ていた。ところが、崋山が投獄され、書籍などが没収されると、世評が騒がしくなり、身を隠すようすすめる人もあった。長英は身寄りのない母のことが心配で、しばらく躊躇したが、「生涯草木とともに朽ち果てるは丈夫の恥じる所」、「崋山は夢物語のために獄に下されし故なれば人に罪を譲るは義にあらず」と、北町奉行所に自首した。

無人島渡航計画に長英や崋山などの蘭学者が関わったとする容疑は立証されず、審理は当初の容疑から、長英の「夢物語」と、家宅捜査で押収された崋山の「鴃舌小記」(げきぜつしょうき)と「慎機論」に移った。
審理が結審しない苛立ちからか、長英は田原藩医鈴木春山に贈った「鳥の鳴聲」(とりのなくね)の中で無実を訴え、鳥居燿蔵の陥れに対し悲痛な叫びで結んでいる。 

二人に対する判決は、この年天保10(1838)年12月19日と28日にそれぞれ言い渡され、崋山は藩の監視のもとに国元で謹慎する「在所蟄居(ざいしょちっきょ)」、長英は町医者であったため、無期懲役の「永牢」の刑が確定した。長英満36歳の暮れであり、弘化元(1844)年6月晦日未明の脱獄までの間を長英は小伝馬町牢屋敷の獄中で過ごすこととなった。

翌年の天保11年、老母は3月に江戸を発ち、帰国した。また、長英はこの年、病人などの世話にあたる添役(そえやく)という牢内役人になった。
天保12年、多くの囚人が前将軍徳川家斎の死去にともなう恩赦で出獄し、長英は牢名主となった。 また、出獄する米吉に託し、母が身を寄せる前沢の茂木恭一郎に、蛮社の獄の顛末を書いた「蛮社遭厄小記」を送った。この中で長英は、蘭学の起こりから日本をとりまく現在の情勢までを説明した上で、「夢物語」執筆の経緯と蘭学弾圧について述べ、自らの存在を歴史的に位置付けようとした。崋山は、この年の10月、自殺して果てる。さらに、長英や崋山を陥れた鳥居燿蔵が町奉行となった。

そして、投獄4年目の天保13年は、長英の獄中生活でも辛い年であった。
当時、入牢者は私刑を避けるため、「蔓(つる)」と呼ばれる金銭を持ち込み、この金で日常の買物をし、牢名主などの収入ともなっていた。名主となった長英もかなりの収入があり、老母や放免運動をしている人たちにお金を送っていた。
しかし、百姓牢の普請により、西無宿牢に移され、長英は客分の隠居となり、外部との通信や収入が思うようにいかず、20両の借金ができた。

また、「小さか(小刀などの金物か)」を所持していたため、「手鎖(てぐさり)」の刑を受けた。仙台の米吉に宛てた手紙は手錠をはめて書いたものである。このなかで「当6月よりは運開けそうろう卦ゆえご安心下されべきそうろう。また、来年はきっときっと出牢と申す八卦は、おととしの夏見置きそうろうゆえ、いずれ来年はゆるゆるとお目にかかりそうろうことも叶い申すべきそうろう。」と、来年の将軍日光参拝に伴う恩赦を信じ、楽観している。また、放免運動を依頼した手紙も紀州藩邸の森(名前不明)に送っている。
ただ、音信の途絶えた老母への思いはつのり、前沢の茂木恭一郎に「まだ生きながらえているなら、母の手で達者という十四、五文字を書かせて送ってほしい。」と頼んだ手紙を送っている。

天保13年、幕府は「外船寄らば薪水を給すべし」と異国船打払令を緩和した。
翌天保14年、仙台藩への長英引き取り工作が伝えられるとともに、水野忠邦が失脚し、放免への希望が膨らみ、長英は獄中から「萬国地理書」百巻の翻訳と人足寄場の病人治療を願い出るが、許されなかった。

弘化元(1844)年6月30日、火災に乗じて牢から脱出するが、その約半年前の弘化元年正月に、茂木恭一郎に宛てて送った手紙に白紙にしか見えない「獄中角筆詩文」を同封している。七言絶句と七言律詩の五つの漢詩で、第5の漢詩に脱獄の意志を込めたと思われる。

 一方、この間の天保14年には、千越の夫の東栄、石巻の遠藤養民が相次いで亡くなり、長英のもとに知らされた。さらに、高野家の不幸は翌年も続き、弘化元年正月3日に、千越、2月3日には義母が病死する。そして、一人残された13歳の能恵が長英が脱獄した後の10月12日に13歳の生涯を閉じた。

青い着物を着た獄中の高野長英を描いた絵

高橋幸泉筆「長英爪書き」

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