鎖国政策
1.鎖国
本来鎖国とは、外国との交際がなく、国際的に孤立した状態をいうが、江戸時代の鎖国とは、日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を禁止し、対外貿易を長崎でのオランダ商館と中国船との貿易だけに制限した状態をいい、完全な国際的孤立状態を意味していない。
また、鎖国という名が使われたのは、長崎のオランダ通詞志筑忠雄がケンペルの著作『日本誌』の一部分を翻訳して、それに「鎖国論」と名づけたころ、すなわち幕末に開国ということが問題にされるようになってから、開国という言葉に対して使われだした。
鎖国はキリシタン禁止と貿易統制を通して形成されたが、寛永期に入ってその政策は急速に進められた。
1623年には、イギリスとの通商が断絶し、翌年の1624年にはスペインとの通交が閉ざされた。1633年以降、鎖国令が数度にわたって出され、1635年には、ついに日本人の海外渡航と在外日本人の帰国が全面的に禁止され、これで国内向けの鎖国体制ができあがった。
1636年になると、長崎の出島ができあがって、そこにポルトガル人をおしこめ、中国船との貿易も長崎1港に制限された。ところが、1637年に島原の乱が起き、幕府はこれをキリシタンの反乱と決めつけ、1639年には、出島のポルトガル人を追放して、以後、ポルトガル人との交渉を厳禁し、ここに鎖国体制ができあがったのである。この結果、対外貿易はオランダと中国だけに限られるようになった。空き地になった出島には、1641年に平戸からオランダ商館が移された。
鎖国後のオランダ商館との貿易は長崎出島で行われ、オランダ人は出島から出ることを禁じられたが、商館長(カピタン)は年に1度の参府を許され、将軍に謁見して献上物をおくった。また、オランダ商館は外国の情報を提供する義務があり、それを長崎通詞が翻訳し、毎年「和蘭陀風説書」として幕府に提出した。
2.異国船打払令
1825(文政8)年に出された江戸幕府の外国船取扱令で、日本近海に近づく外国船に対し、一切無差別に砲撃を加えて、排除することを定めたもので、別名を無二念打払令ともいう。
文政年間に入ると、淡水・食糧を求めて日本近海に現れるイギリス・アメリカの捕鯨船が増加した。もともと日本側は、補給を求めて接近した船には必要品を供給した上で、江戸時代初期からの徹底した海外交通統制策(鎖国政策)がある旨を説明し、再航を禁じたのだが、少しも効果はなかった。
そして、幕府側は、穏便に帰帆させるとともに、警備を厳重にするようにと呼びかけたので、沿海諸藩には異国船渡来は大きな負担となった。このような状況下で、文政7年、鹿児島藩所属の宝島でイギリス捕鯨船員による暴行事件が起こり、幕府はこの報告を重視し、翌年2月に異国船打払令を発布した。

3.モリソン号事件
幕末、江戸幕府がアメリカ船モリソン号を砲撃した事件。19世紀に入り、諸外国の日本接近が盛んになったが、幕府は異国船打払令を出して(1825年)鎖国を続ける方針をとった。1837(天保8)年、日本人の漂流民を乗せたモリソン号が漂流民送還と通商開始要求をめざし浦賀に入港したが、幕府はこれを拒否し、異国船打払令を楯に砲撃を加え、追い返した。この事件をきっかけに長英は『夢物語』を書いた。
4.無人島渡航計画
茨城県鹿島郡にある無量寿寺の住職、順宣、順道父子が、仲間と計画していた小笠原諸島への無人島渡航計画。この無人島渡航計画とモリソン号打払いについての渡辺崋山・高野長英たちの批判とがむすびつけられ、目付鳥居耀蔵は小笠原貢蔵に命じ、幕府の政策批判の意図を含めた無人島渡航計画の証拠集めをさせる。いったん大洋上の無人島に渡れば、そこで異国人と幕府に知られずに連絡をとることができ、日本の国を危うくすることになると考えたのである。
一方、順宣、順道父子の方は、僧侶としての仕事や詩作、医学や地理の研究をそのあいまにやっているという暮らしをしていたが、やがては無人島に行って、太平洋上で同じように耕したり、詩をつくったり議論したりする共同社会をつくろうという、素朴なユートピアを描いていた。その中には潜在的に封建制度批判の芽があったかもしれないが、公然と幕府を批判する気はなかったと思われる。
1839年、無量寿寺の住職、順宣、順道父子とその一味は無人島渡航計画のかどにより捕らえられた。
5.蛮社の獄
江戸幕府が渡辺崋山、高野長英らの蘭学者に加えた大弾圧事件。蛮社とは蛮学社中、つまり南蛮の学を学ぶ人たちの集まりを指す。
1838(天保9)年、和蘭風説書によりイギリス船、モリソン号が渡来すると情報を得た幕府は、異国船打払令にもとづき、これを打払うことを決した。このことを知った崋山や長英は、大いに憂慮し、崋山は『慎機論』を草し、長英は『夢物語』を著述して内外の情勢を論じ幕府を批判した。
このような情勢下にあって、浦賀付近の測量で長英門下、内田弥太郎におくれをとった目付鳥居耀蔵は洋学者を憎悪し、その部下小笠原貢蔵に命じて崋山・長英らの動向をさぐらせ、ついで幕臣花井虎一を強唆して密告させ崋山らを検挙した。長英は自首し、三英は自刃した。
その罪状は、町人・僧侶らの無人島渡航計画に加わったこと、海外事情を研究し、幕府を批判したこと、崋山が大塩平八郎と通諜した形跡のあることが挙げられた。尋問が進むにつれて虚構の密告であることが明らかになったが幕府は、その罪をあえて政治批判に問い崋山は国元にちっ居、長英には永牢の判決を下した。
6.ペリー来航
ペリー 1794年~1858年
アメリカ海軍軍人。1853(嘉永6)年、東インド艦隊司令長官として4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、久里浜で国交・通商を要求するアメリカ大統領フィルモアの親書を将軍に提出した。翌年軍艦7隻を率いて再来日し、日米和親条約を締結し、下田(現静岡県)と箱館(現北海道)を開港させた。帰途、琉球と修好条約を締結した。
この記事に関するお問い合わせ先
- みなさまのご意見をお聞かせください
-
更新日:2023年09月29日