高野長英をめぐる人々

更新日:2023年09月29日

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1.高野長英関係系図

高野家

長英が養子となった高野家は、関ヶ原の戦いの直前、伊達政宗の白石城攻めで降伏した高野佐渡守勝氏(たかのさどのかみかつうじ)に始まる。勝氏はもともと上杉謙信の家臣で、このとき会津上杉家に仕えており、降伏後、水沢留守家の祖である留守政景(るすまさかげ)の家臣となった。東大畑小路(現在の大畑小路)に現在も屋敷があり、国指定史跡「高野長英旧宅」として保存されている。家柄は、「二番座御召出」で後藤家の次にくる。石高は、1628(寛永5)年が1貫文、1739(元文4)年から1790(寛政2)年で553文、慶応年間で552文と記録されており、長英が養子となったころの生活状況にゆとりはなかった。

後藤家

後藤家は石高3貫6百48文、留守家臣の中では御一家衆、準御一家衆、一番着座、二番着座につぐ「一番座御召出」という家柄であった。屋敷は城の南側、給主小路(現在の吉小路)にあった。現在、長英誕生の地からやや離れた南西の場所に、「高野長英誕生地の記念碑」が建てられている。

高野長英関係系図

2.高野玄斎

たかのげんさい 1771(明和8)年~1827(文政10)年

高野玄斎は高野玄端の嫡子で、江戸に留学し、当時有名な蘭方医だった杉田玄白の天真楼塾に入り、大槻玄澤らとともに蘭方医学を学んだ。水沢に帰郷した後、医者となった。

玄斎が玄白や玄澤と文通していたことは知られているが、現存する書簡には学問的なことは記されていない。

腰に刀を差し書見台の前に正座をして座っている高野玄斎の肖像画

「高野玄斎肖像」(高野長英記念館蔵)

3.後藤湛斎

ごとうたんさい ?~1823(安政6)年

長英の兄。父後藤惣介実慶と後妻として迎えられた美也との間に長男として生まれる。湛斎は江戸留学中、1822(文政5)年に留守家の医師であった坂野長安の養子となるが、坂野家に入ったかどうか定かではない。湛斎はその後江戸で開業するが、病魔におそわれ、回復の見込みがたたないため、長英が泊まり込みで看病にあたるが、その甲斐もなく、1823(文政6)年、堪斎は病死した。

4.千越

ちを 1806(文化3)年 ~ 1844(弘化元)年

千越は高野玄斎の一人娘で、玄斎の養子となった長英と婚約する。文政10年7月に玄斎がこの世を去った後、長英は千越と結婚して高野家の家督を継がなければならなかったが、水沢を離れ、江戸、長崎で学問と医業に勤しんでいた長英はこれを拒否し、留守家臣の斎藤太右ヱ門の息子の元恭が千越と結婚し、高野家を継ぐことになった。

しかし、元恭は結婚を前に女性と逃げ、行方をくらましてしまう。長英の帰りを長い間待ち続けても果たせなかった千越。今度は元恭とも不縁となってしまった。千越と元恭の間に何があったか知るすべはない。しかし、元恭の方に千越との結婚を拒む理由があったようである。高野家の断絶回避と女の幸せ、その間で揺れた千越の心にまたしても深い傷を負わせることになった。不憫な千越に手紙をしたためる長英ではあったが、すでに帰郷の意志はなく、「おまえは今は表向きは娘の事…この上はまたまたよき人をもらい、あとかた良きよういたしたく、…おまえもさぞかし御うらみもあらん。母さまには、いかばかりお腹立ちあるべきや、おまえより良きようにお詫びを申しくだされべきそうろう。おまえにも何事もこらえて御ゆるし下されべきそうろう」と因果を含めている。

千越が仕えていた留守家奥方様もこの不幸に同情され、留守家からは高野家安泰の書面が下されたと伝えている。千越の心を慰めるために奥方様が贈ったと伝えられる琴が、記念館に展示されている。

5.茂木恭一郎

もききょういちろう

茂木恭一郎は、長英といとこの間柄である。長英を尊敬し、敬服していた。長英の母の弟茂木左馬之助の嗣子である。左馬之助はよく甥の長英を理解し、一生涯長英の力になった人物であったが、その嗣子恭一郎も父と変わりない好意を持ち続け、特に左馬之助死亡の後も長英を色々な面で支えた。長英もなにかと恭一郎を頼りにし、事あるごとに手紙を寄せている。

6.吉田長叔

よしだちょうしゅく 1782(天明2)年~1827(文政10)年

『解体新書』の翻訳者の一人である桂川甫周の門人で蘭書により医学を研究した蘭方医で、加賀藩の医者も兼ねていた。

1812(文化9)年に西洋内科を唱えて開業するが、公然と西洋内科を唱えて治療に従事したのは長叔が初めてであった。

長英は江戸留学中、長叔の家塾蘭馨堂の門人となり、西洋内科を学んだ。長英は師である長叔の一字をもらい、「卿斎」から「長英」に改名した。

7.広瀬淡窓

ひろせたんそう 1782(天明2)年~1856(安政3)年

江戸後期の儒学者。
豊後国日田で生まれ、筑前国の亀井南冥・昭陽父子の塾に入ったが、結核を患い退塾して独学を始める。1805(文化2)年、儒者としてたつことを決意し、家業を弟に譲り、やがて開塾。塾生が増加するにしたがい、家塾咸宜園を新築する。教育方針は学歴・年齢・家格を問わず、万人に門戸を開いたため、塾生はのべ総数4600人に及び、高野長英・大村益次郎・羽倉簡堂らの俊才を輩出した。思想は敬天を主とし、老子や易などを含む独自のものである。

8.二宮敬作

にのみやけいさく 1804(文化元)年~1862(文久2)年

磯崎浦(現在の保内町)に生れる。1819(文政2)年、長崎に渡り、吉雄権之助にオランダ語を美馬順三に蘭方医学を学んだ後、シーボルトの鳴滝塾に入る。1828年、シーボルト事件により入獄の後、長崎払いの処分を受けると帰郷し、上須戒村(現在の大洲市)、卯之町(現在の宇和町)で開業し、種痘を行うなど地域医療に尽力した。また、卯之町ではシーボルトの娘、楠本イネの養育を託されたほか、逃亡中の長英をかくまった。

9.伊達宗城

だてむねなり 1818(文政元)年~1892(明治25)年

宇和島藩主。1844(弘化元)年に藩主となり、藩政改革を行い、殖産興業や軍政改革を進めた。長英や村田蔵六を登用して蘭学の摂取に努め、藩内の諸流の砲術を西洋式の威遠流に統一した。将軍家定継嗣問題では一橋派として活動し、安政の大獄に関連して隠居したが、引き続き藩政の実験を握った。文久年間以降は公武合体を推進した。明治以降は、軍事参謀、外国掛、外国事務総督、外国管知事、参議、民部卿、大蔵卿、欽差全権大臣などを歴任した。

宇和島の伊達藩のルーツは、伊達政宗に溯る。正宗は徳川家康から100万石の領地をもらう約束になっていたが、仙台藩は62万石であった。後に、長男秀宗に宇和島10万石が与えられた。

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