ひらいずみ遺産「白鳥舘遺跡」
北からみた白鳥舘遺跡
白鳥舘遺跡(しろとりたていせき)は、中尊寺から北東に約4キロメートル、奥州市と平泉町との境界に位置します。遺跡は、北上川の西岸に半島状に突き出た丘陵とその裾野の低地にかけて広がります。この付近は、北上川両岸の丘陵が迫る狭隘部で、平泉地域の北辺を画す場所にあたります。
白鳥舘遺跡は、平安時代の9~10世紀ごろに集落が営まれたのち、12世紀から室町時代の15世紀半ばにかけて連綿と利用されたことが発掘調査によって明らかになっています。
遺跡の画期は、奥州藤原氏が繁栄を極めた12世紀で、丘陵の裾野の低地部の発掘調査によって掘立柱建物群やかわらけ窯跡などからなる12世紀の遺構群が確認されたことにより、平泉の時代に、ここで手工業生産が行われていたことが明らかになりました。
なぜここで手工業生産が営まれたのかについては、遺跡の環境から読み解くことができます。中世には遺跡の北端で北上川と白鳥川が合流していたとみられ、遺跡の南には、北上川の落堀とされる沼が所在します。これらはともに川船の停泊には最適な場所であり、白鳥舘遺跡は北と南に船着場を擁していた場所だったと推定されます。さらに遺跡東部の北上川の河床は岩礁地帯であるため、北と南に船留めをもつ白鳥舘遺跡は、岩礁を避けて船越をすることも可能な地点でもありました。白鳥舘遺跡は、こうした地形的特徴から、生産と流通を兼ね備えた川湊として平泉の経済を支えた遺跡であったと考えられます。
白鳥舘遺跡の川湊は、奥州藤原氏の滅亡後、鎌倉時代以降もその機能を失うことなく利用され、14世紀後半には丘陵部へと拠点を移し、中世城館が築かれます。15世紀後半には城館が廃絶し、同時に川湊としての機能も失ったとみられます。鎌倉時代になっても継続して使われている点からも、重要なインフラ施設であったことが窺えます。
「平泉」を具現化した奥州藤原氏の莫大な財力は、北上川舟運を通じて北方世界との交易などによりもたらされたものであり、平泉の経済基盤には北上川舟運が不可欠の要素でした。このことから白鳥舘遺跡は、「平泉」の手工業生産を支えた産業基盤を示す遺跡であるとともに、北上川舟運の北の要所として「平泉」を支えた経済基盤を示す代表的遺跡といえます。
アクセス
- 東北自動車道平泉前沢インターチェンジから車で約5分
- 前沢駅から車で約8分
所在地
- 奥州市前沢字白鳥舘
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更新日:2024年06月03日