ひらいずみ遺産「長者ケ原廃寺跡」

更新日:2024年06月03日

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北上空からみた長者原廃寺跡の写真。奥には関山の頂部がみえる

北からみた長者ケ原廃寺跡と関山丘陵

長者ケ原廃寺跡(ちょうじゃがはらはいじあと)は、中尊寺の北1キロメートル、衣川北岸の段丘上に所在します。地元では源義経を平泉へ連れてきた商人「金売吉次」の屋敷跡と長い間伝えられてきた遺跡でしたが、昭和24年からの考古学的な調査により、古代末期の寺院跡であることが明らかになっています。

遺跡は、東西110メートル、南北90メートルの規模で方形に築地塀跡が巡り、築地塀跡の外側には溝跡が伴っています。築地塀跡南辺のほぼ中央には南門跡があり、塀跡の内部には本堂跡と西建物跡が中央やや後方に並置されています。

本堂跡は桁行、梁行とも5間(16.8メートル四方)の礎石建物であり、南孫庇付き三間四面堂跡あるいは双堂形式の方五間仏堂と推定されています。西建物跡は、3間×3間(7.65メートル四方)の礎石建物で、多宝塔跡または方三間堂跡の可能性が指摘されています。南門跡は梁行3間、桁行2間(7.2×4.5メートル)の礎石建物です。真ん中の柱間が左右の柱間より広く、中柱を持たない形式の建物です。また、築地塀跡北辺と西辺の中央には、それぞれに掘立柱建物の門跡が伴うことも確認されています。門跡は棟門と考えられます。北門跡、西門跡のみが掘建柱式と建築構造が異なりますが、ともに門の外側の溝跡が土橋となっていることから、寺院の創建当初から設置されていたとみられます。

長者ケ原廃寺跡は、出土遺物から10世紀末から11世紀代の寺院と考えられます。廃絶した時期について直接的な証拠はありませんが、遺構には改修の痕跡がほとんど見られないことなどから、その存続期間は短く、遅くとも12世紀初頭までには寺院としての機能を終えたと推定されます。

奥州藤原氏成立の前段階である10~11世紀、長者ケ原廃寺跡が所在する衣川地域は、奥六郡の南端にあたり、中尊寺が所在する関山には「衣関」という関が設置されていたと考えられています。長者ケ原廃寺跡は、「衣関」と同時期に存在した寺院であり、寺院の中軸線が関山山頂に向かって設定されていることから、「衣関」に関わって設置された寺院の可能性が非常に高いといえます。奥州藤原氏誕生の契機ともなった前九年合戦において「衣川関」(衣の関とは別施設という説もあります)は、奥六郡との境界地として激戦が繰り広げられた場所でした。藤原清衡は、このような南北境界の地であり戦乱の時代の象徴でもあった「衣関(衣川関)」の跡地に、浄土・平泉の基点として中尊寺を建立します。

長者ケ原廃寺跡は「衣関」であった関山を望むよう配置されており、関山が12世紀に奥州藤原氏の仏教的理想空間の中心の聖なる山となった象徴性を示す遺跡といえます。

アクセス

  • 東北自動車道平泉前沢インターチェンジから車で約5分
  • 前沢駅から車で約8分

所在地

  • 奥州市衣川田中西

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