古代2(平安時代)

更新日:2023年09月29日

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古代2(平安時代中期~後期)

平安時代中期になると、朝廷の支配体制は律令制から王朝国家体制に転換します。郡の長である郡司による在地支配の秩序が変質していく中、新勢力を形成したのが奥六郡の南境にあたる衣川に本拠地を置く安倍氏でした。

安倍氏は11世紀の初め頃には「六箇郡の司」として公的な地位を得て奥六郡を事実上領地化していましたが、全盛期の安倍頼良(後に頼時と改名)の時、奥六郡の南関であった衣川を越えて南方に進出したとして朝廷と対立します。前九年合戦(1051~62年)と呼ばれるこの争いは、はじめ安倍氏有利と思われましたが、源頼義が出羽国の清原氏の力を借りて反撃したことで形勢が逆転し、安倍氏は滅びてしまいます。

安倍頼時の娘を妻としていた藤原経清も安倍氏側に荷担したとして頼義の恨みをかい、残酷に殺されましたが、経清の妻は7歳になる清衡を連れて清原氏の嫡子である武貞と再婚しています。やがて、清原氏の内紛である後三年合戦(1083~87年)がおこると、清衡は新しく陸奥国守として赴任した源義家の協力を得て勝利し、陸奥出羽両国の覇権を握ることになりました。

清衡は父経清の姓である藤原に姓を戻して奥州藤原氏の初代となり、江刺郡豊田館(詳細はこのぺージの「市史跡:豊田城跡碑」の箇所をご覧ください。)から平泉に本拠を移し、中尊寺を中心とする都市の建設を推進しています。この「都市平泉」は、「柳之御所・平泉遺跡群」として国史跡に指定されている白鳥舘遺跡や接待館遺跡(詳細はこのぺージの「国史跡:柳之御所・平泉遺跡群(接待館遺跡)」の箇所をご覧ください。)の発掘により、胆沢郡にも広がっていたことが確認されており、奥六郡の境であった衣川を越え、白河以北の多賀国府の管轄領域を含む東北全域に清衡の権限が及んだことを示しています。

奥州藤原氏による治世は基衡、秀衡と続きましたが、文治5年(1189年)、四代泰衡のとき、鎌倉幕府を開いた源頼朝によって滅ぼされています(奥州合戦)。

資料の解説

国史跡:長者ヶ原廃寺跡

11~12世紀において衣川は在地勢力(安倍氏・清原氏)と朝廷勢力との境界でした。長者ヶ原廃寺跡は平泉前史をなす安倍氏時代の寺院跡と推測されている重要な遺跡です。一辺約100メートルの築地塀が方形に巡っていて、その中に3棟の礎石建物が確認されています。

本堂跡と南門跡の中軸線を南に延長すると中尊寺が鎮座する関山で最も高い地点に到達することなどから周辺の山を意識して作られたことは明らかです。同じように周囲の山を意識して寺や町づくりを行った奥州藤原氏に大きな影響を与えていると評価されています。

右側に「史跡 長者ヶ原廃寺跡」と縦書きで書かれた石碑、左側に案内板が設置されている長者ヶ原廃寺跡の写真

国史跡:長者ヶ原廃寺跡

国重文:木造僧形坐像(黒石寺所蔵)

膝のところに別木をあて、内刳りして、「永承二年二月九日 仏師僧積」の銘があります。

古くは寺域の大師山の山頂にある岩窟大師堂にあって慈覚大師像と伝わります。造形的に優れ、彫りの深い衣文は鮮やかで、その彫り出しの具合から、平安初期の様式がみられます。

(注意)黒石寺で一般に御開帳しています(予約・拝観料必要)。

左手は掌を内に向け、右手は膝上で掌を仰ぎ、持ち物を持つ形で坐っている木造僧形坐像の写真

国重文:木造僧形坐像(黒石寺所蔵)

国重文:木造兜跋毘沙門天立像(智福愛宕神社所蔵)

形成的には成島毘沙門堂(花巻市東和町)の像に近く、11世紀頃の当地での制作を考えさせる像で、通例によって足元に地天女がみられます。

毘沙門天の顔を除いて全面的に用いられる丸ノミの装飾的な横縞(ナタ彫り)が特徴的で、東北を代表するに足る平安彫刻です。

(注意)智福愛宕神社で一般に御開帳しています(予約・拝観料必要)。

左手に宝塔、右手は宝棒を持ち、足元は穏やかな地天女が忿怒の表情の毘沙門天を支えている木造兜跋毘沙門天立像の写真

国重文:木造兜跋毘沙門天立像(智福愛宕神社所蔵)

市史跡:豊田城跡碑

豊田館(城)は、藤原清衡が平泉に移る前の居館で、父である藤原経清が築いたとされています。その擬定地の一画に安永3年(1774年)に建てられた仙台藩儒田辺希元撰の石碑があり、市の史跡に指定されています。内風土記に東西57間(102.6メートル)、南北39間(70.2メートル)とあり、この碑にも同じ記述があります。

三方に囲いがされた左奥に案内板、中央に石碑が立つ豊田城跡碑の写真

市史跡:豊田城跡碑

白磁四耳壺・遷仏(豊田館跡出土)

豊田館の詳細は未詳ですが、擬定地内から経壺として使用されたと推定される白磁四耳壺(市有文)と大日如来を表現した遷仏が出土していることから、経塚と寺院が所在所在したことは明らかです。

政治施設と信仰関連施設がセットになって存在しており、当時の舘の性格を知るうえで貴重です。白磁四耳壺は中国福建省産で11世紀末から12世紀初めの舶載品であり、平泉前史の藤原氏の仏教信仰と財力を物語る資料としても貴重です。

(注意)えさし郷土文化館で展示しています。

玉縁の口で、肩に耳が付いた白磁四耳壺の写真

白磁四耳壺・遷仏(豊田館跡出土)

国史跡:柳之御所・平泉遺跡群(接待館遺跡)

接待館遺跡は、二重の堀と土塁が囲む12世紀後半の大規模遺跡です。衣川北岸に都市平泉が展開したことを示す重要な遺跡ですが、衣川の浸食により遺跡南半が消滅しており、現在のところその性格を特定できていません。

しかし、溝跡から12世紀後半の手づくねかわらけが大量に出土しており、酒宴を伴う儀式などが頻繁に行われたことが判明しています。

緩やかなS字カーブの川の上方に田畑や民家が点在し、下方には木が生い茂った森が広がっている柳之御所・平泉遺跡群の接待館遺跡を上空から撮影した写真

国史跡:柳之御所・平泉遺跡群(接待館遺跡)

国史跡:柳之御所・平泉遺跡群(白鳥舘遺跡)

北上川は、政治・行政上の拠点である平泉を支える重要な生活基盤であり、北上川なくして都市平泉の発展はありえませんでした。

白鳥舘遺跡は遺跡の地理的な特性などから北上川と不可分な遺跡であることが想定されていましたが、鉄やかわらけなどの製作や加工を行った工房跡群が見つかったことで、中世前期の川湊である可能性が高まり、注目されています。

田畑や民家が点在する中央にS字カーブの広い川が流れている柳之御所・平泉遺跡群の白鳥舘遺跡を上空から撮影した写真

国史跡:柳之御所・平泉遺跡群(白鳥舘遺跡)

水晶製数珠玉(白鳥舘遺跡出土)

白鳥舘遺跡の丘陵部から南西に位置する低地の微高地から12世紀ごろの掘立柱建物群が発見され、その西側から工房跡群が発見されています。鉄塊や鉄滓、ふいごの羽口に加えて、銅塊や板状の粘板岩や水晶製の数珠玉が出土していることから、鉄、かわらけの他に銅や石製品の製作・加工が行われていた可能性もあります。

T字形に穴が開いている直径2センチメートルの水晶製数珠玉の写真

水晶製数珠玉(白鳥舘遺跡出土)

市有文:藤原氏の経壺

  • 教壺(有文第53号/万松寺経塚出土(益沢院擬定地内))
  • 須恵器系波状文四耳壺(有文第55号/大日前出土)

奥州藤原氏は陶磁器を非常に好み、12世紀の日本において入手可能であったあらゆる陶磁器を購入し、また一部を地元で生産させていました。それらは、豊田館の擬定地から出土した白磁四耳壺のような中国産陶磁器の他、国産の渥美や珠洲系の壺が市内から複数出土しています。これらは経壺や骨壺として使用されたと推定され、当時の末法思想と浄土思想による奥州藤原氏の信仰を示すものとして貴重です。

(注意)えさし郷土文化館で展示しています。

口部分にくびれがあり、上方が大きく下にかけて細く造られている経壺の写真

市有文:藤原氏の経壺

県有文:木造日光菩薩立像 木造月光菩薩立像(黒石寺所蔵)

平泉2代基衡が寄進したと伝わります。月光菩薩の顔が下膨れになって箱型に近いという形成的な特徴から12世紀中葉以降の制作であるとされ、藤原期末の仏教文化を考えるうえで貴重な仏像です。

薬師如来の脇侍として従う菩薩であり、これらの像の存在は12世紀にも黒石寺が重要な寺院であったことを示しています。

(注意)黒石寺で一般に御開帳しています(予約・拝観料必要)。

左腕を曲げ、右腕は垂らし、腰が右側に折れ体が左側に傾いている木造日光菩薩立像の写真

県有文:木造日光菩薩立像(黒石寺所蔵)

左腕を曲げ、右腕は垂らし、腰が左側に折れ体が右側に傾いている木造月光菩薩立像の写真

県有文:木造月光菩薩立像(黒石寺所蔵)

市有文:木造聖観音立像(白山神社所蔵)

衣褶の彫法もおだやかで都ぶりへの傾倒がみられ、黒石寺の日光菩薩立像・月光菩薩立像とならんで岩手県中央部における藤原期末の典型的作例の一つとされています。平泉文化の影響を如実に示すもので、12世紀後半の制作がうかがえます。

(注意)えさし郷土文化館で展示しています。

左手はこぶしを握って前に出し、右腕は折れて無くなっている木造聖観音立像の写真

市有文:木造聖観音立像(白山神社所蔵)

この記事に関するお問い合わせ先

歴史遺産課 企画管理係
〒023-1192岩手県奥州市江刺大通り1-8(江刺総合支所4階)
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